日本の神道というものが、世界のこれからの中心的な価値意識を担う、あるいは中核的な価値観をサポートするということの重要な要件の一つとして、八百万の神々の並立、並存という真理があるだろう。

私たちは神社に行く。

するとある神社に行くと大概その神社の摂社というものがある。

いわばその神社の祭神とネットワークのある神々が並立してお祀りされているわけである。

あ神社へ行けば、い神社と、う神社のかわいらしい摂社のお社がある。

ところが、い神社へ行くと、あ神社や、う神社の摂社があるというわけである。

それぞれの神様の世界観の中では、その神社の主祭神が中心になるのであるが、関連する神々もその中に祀られており、しかし、絶対的な最上の主祭神を神道と言う世界観の中で強制しているわけではない。

もちろん、日本国なら伊勢神宮を最上とするとか、そういう考え方はあるが、それが絶対神であって、それを犯すものは重い罪に問われる。ということはない。

本当は出雲の神が最上なんだ、三輪の神が大本だと言っても差支えはないのである。

伊勢に行けば、それを最上として敬い、出雲へ行けばそれを最上として敬う。

これこそが神々の並立論ということであり、こういう考え方が一神教文明から生まれ出るはずがない。

そして、そのような文明観そのものを継承し自ら体現する祭祀王としての天皇が文明の核として存在している。

神道の起源は天皇家ではないという説もある。

出雲だ。三輪だ、という説もある。

しかし、この国において二千年ほどの間、神道を、極めて洗練された体形にまで発展させ、日本の土地に根付かせ、人心をその文明観の中に完全に定着させ得たのは天皇家がこの国を治めたということ以外には絶対にあり得ない。

それだけで充分であり、それこそが最大の価値を有する以外の理由は何もないのである。そしていまだに天皇家が祭祀王としてその文明を、どんな時代にあっても欠かすことなく継承しておられる。

この八百万の神々の並立論を国際社会における、それぞれの文明の、それぞれの価値意識を有する社会間の関係構築の中核に据えるということが、来るべき文明において最も必要かつ重要な視点になるだろう。

日本文明がなにがしかの勢力に破壊され消えて行くということは、世界文明の進展において、極めて重大な損失であり、もしそのようなことがおきれば、人類は極めて長期間の「暗黒時代」を生きねばならないことになるだろう。

暴力と陰謀と力と金だけが全てを制し、人間を奴隷化するという世界がそこに待っている。

日本文明こそがそれを制止する唯一の希望であると断言して差し支えないというのが、今現在の世界の状況を見て確信せざるを得ないことである。

(写真:宗像大社、枚岡神社、羽黒神社より)

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