信じるか、信じないかで、救われるか、救われないかを厳密に区別するのが宗教であるとすると、神道における重要事の一つに「関わる地域又は土地」ということがある。

霊魂を鎮座させるということ。

先述の『日本文明の構造を来るべき世界文明構築の基礎とする』図1で示したように、旧文明の宗教と神道の違いの最大の特徴はここにある。

信じるか、信じないかは個人の問題である。信じるか、信じないかで救われるか、救われないかが決定する以上、それはあくまでも個人と神(崇高なる存在)との一体一の関係以上のものではない。

民族宗教のユダヤ教もまた例外ではない。ヤーウェがイスラエルの民を救うかどうかは、イスラエルの民がヤーウェを信じるか、信じないかでのみ決定するが、一人のイスラエルの民が信じれば、イスラエルの民はことごとく救われるのか。民族と神との対の関係であるとはいえ、厳密には、信じるもののみが救われるという図式に変わりはない。

この構図は、キリスト教であれ、イスラム教であれ、仏教であれ同じである。仏教は個人の輪廻転生からの離脱にいたる道程を説いたものだが、極めて個人的なアプローチであることに変わりはない。

大乗仏教は創始仏教のエゴイズムをただしたとされるが、要するに、万民に仏教を触れさせようと教義を用いて、「関係性」を簡略化したに過ぎない。創始仏教は出家者向きであって、非出家者には向かないものであったからである。

神道に教義はない。こうすれば救われるとか、こうすれば輪廻を脱し人の苦界から離脱できるとか、その方法を解いたり、人が天国へ行くために守るべき戒律を授けたりということはない。

神道は、神霊、人霊、自然霊などを「祀る」ことであり、それは祭儀により行われ、その地域、土地にその霊魂を降臨又は鎮座させ、関わる地域と人々と交流する。それは無意識の導きともなる。鎮座することと関わること/交流することとは一体化している。

「信じる」ことと「祀る」ことは違うのである。

降臨/鎮座する、とはそのエリアに魂が降臨する/鎮座することであり、旧文明の宗教は、個人と崇高なる存在とが一体一で空間的にのみ向き合う。

旧文明の宗教は、崇高なる存在と人とが、関わる土地や地域と三角関係で繋がる図式は構造的/本質的に存在しない。

一方、このような関係性を持つのが神道の特質であり、日本文明を見ていく上で、最も重視してみていかなければならない特徴の一つである。

日本人の気質や特徴、特質、思考パターンとこのこととは大いに関係がある。同時にそれは、他のこれまでの文明に比べて極めて異質な性質を持っているとも言えるだろう。

(写真:外宮遷御 昭和二十八年 wiki)

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