鎮座するとはその関わる地域/エリアに、それがあるということである。

人々は、神々や祖霊や自然霊のあるところに暮らしている。同居しているとも言う。

そこに暮らす人々は、「それ」をうやうやしくお迎えし、もてなす。「おもてなし」という言葉の真意はそういうところにあるだろう。

折口信夫は、日本の神々について、人々がそれを表現する言葉として、「まれびと」という言葉を用いた。稀なる人、客人を意味する言葉であるが、祭りになると、「まれびと」をお迎えしてうやうやしくもてなし、共に楽しい時間を過ごす。

「それ」と共にあるという感覚は神々や人霊や自然霊がすぐそこにある世界である。極めて身近な世界。一神教が神と人間との間に絶対的な距離感を置くのとは対極的である。

鎮守の森とは、関わる地域一帯にそのような空間を作り出すための核となっている。関わるエリアの影響圏は、祀られる神々や、地域の性質や状況によっても異なる。

日本文明とは大小無数の鎮守の森の集合体であると言っても過言ではない。

祖霊とは先祖霊のことであり、それを祀ることは、その系譜に関わる死者も生者もすべて、たとえ無意識のうちにであれ、関わりを持つことになる。ある人がその祖霊に働きかけるということは、同時に無数の「関係者」に影響を及ぼしうる存在である。

地霊を祀れば、その神霊や霊魂が関わる地域一帯が関わるエリアとなる。地霊とは土地や地域に密接な関係のある神霊や霊魂や自然霊のことである。ある人がその地霊に何か働きかけるということは、その地域やエリアに関わる無数の「関係者」に影響を及ぼしうる存在である。

祖霊も地霊も関わる地域やエリア、あるいは人間に面的に影響を及ぼしている。それが祀られること自体が、その土地、地域、エリアや、それに関わる人々に無意識のレベルから影響を及ぼしうるのである。

既存の宗教が、一対一の個人的な関わりに終始するのに対して、神道の祀りの構造は、常に「面的」に影響している。

個人と個人の集合体はどれだけ多く集まっても「点」の集合体に過ぎない。一見すると巨大な面を作っているように見えても、実際は砂粒が無数に集まっているに過ぎない。

砂粒は風が吹けばさらさらと舞う。「点」の集合体は個人主義を促進するが、個人の不安定と、個人間の不信をも、同時に助長する。この二千年が不信と争いの時代であったこととこのことには大いに関係があるだろう。

『日本文明の構造を来るべき世界文明構築の基礎とする』図2(下記添付)で示したように日本文明は、祖霊や地霊や自然霊の関わるエリアに人々が包まれるように暮らしている。

日本文明が作り出す構造は「面的」であり「点」の集合体ではない。

人々は、「まれびと」をもてなす。「まれびと」には神霊もあるが、人霊も自然霊もある。神々には、大小高低は存在する。しかし、大小高低に関わらず、人々は「それ」をあつくおもてなしする。お迎えする人々にとっては、いずれもかけがえのない存在である。

「おこぼれ」にあづかる。と言う言葉がある。

「まれびと」を「もてなし」「おこぼれ」にあづかるというのは、日本人と神々との基本的な関わり方を簡略に示している。人は神々の「おこぼれ」をいただきながら暮らすわけである。

それは「地域」という面的な空間の中で起こっている。

神々の作り出す世界に同居する人々のいる世界とは、ユダヤ・キリスト教文明の説く、「神の国」という言葉とも親和性がある。

日本文明の世界観(2)
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