これはもう自分としても何回も書いてきたことであるが、さまざまな表現方法やアプローチの違いによって、何度でも書き加えられることができる。

旧約起源の一神教の成立は二千年以上に遡るが、キリスト教の成立からはおよそ二千年。人類は、多極から一極へのプロセスを辿ってきた。地球は狭く小さくなってきたのである。

その流れが加速するのは、厳密に言えばこの五百年くらいかもしれない。しかし、イスラムの勃興はそれよりも早い。

一元化へのプロセスは、植民地帝国主義という衣を被り、やがて資本主義から金融資本主義というスタイルを伴って大いに地球を席捲した。

このまま世界は、ユダヤキリスト教的世界一元化の波を受け入れて、完全統一を目指すのか。あるいは、それを拒否するのかの瀬戸際にあると言える。

しかし、そもそも双子の兄弟であろうキリスト教とイスラム教それ自体が、互いの一元化を決して受け入れないことが、その流れを否定する端緒であり確証となるであろう。

これまで、世界は多極から一極へのプロセスをユダヤキリスト教的世界観の中で辿ってきたが、その強力な推進力を世界史上初めて否定したのが、明治維新以降の日本である。

怒涛のユダヤキリスト教世界の勢いを激しく削いだのが、想定外の強国となった唯一の多極文明国家日本であったのは、次代の文明がいかなる方向性になるのかを象徴的に示したのだと言える。

多極から一極へと流れてきた文明の推進力は、日本の勃興を持って、一極から多極へと逆回転を始めたのである。日本がそうしたというよりも、地球的なエネルギーの法則に見合ったのが、たまたま日本という国家であったと考えてもいいだろう。

明治維新に関しては、昨今さまざまな説が言われ、日本文明という視点から見た場合、否定的な考え方もあるが、しかし、この一点を持って世界史的な意義があると見るべきである。

しかし、日本は平成以降沈潜しており、このままその役割を終えていくのか。

では、一極から多極への逆回転の文明的プロセスを西洋が再び牽引できるのか。

それは極めて難しいだろう。しかし、その試みは、むしろ西洋から始まっているのかもしれない。多極へのシフトにおいて最もその困難を味わっているのは他ならぬ彼等であろうからだ。

しかし彼らが、どれほどの善意やエネルギーを持ってこの流れを先導しようとしても限界がある。

なぜならば、それは彼等自身の根源を否定しながら進まなければならないからである。

自らを否定し、己のアイデンティティーを崩壊させながら世界を先導するその先に、次世代文明の何が存在するのか。

魂と精神性の喪失を伴った、資本による社会の独占と、人間の一元化(奴隷化)しかそこにはないのではないか。価値観の喪失を伴った統一世界。

日本の勃興というのは人類史的に意味がある。

それは日本が優越した民族であるという話ではなく、日本には次代の文明を先導し、方向性を示す役割があるのだと自覚する必要があるということだ。

その意味で日本人にいま求められているのは、自らの文明観を確立し、それを次代の新文明確立の土台となせるよう世界をサポートすることにある。

消去法で考えても日本しかないと思う。

足元を見る。身近な足元の歴史を見る。自分の役割の中からそれを一つ一つ見出していく。誰にでもできることだ。

大きな話ではない。自分の身の回りの問題なのだから。

大きな話も小さな話も。自らの文明の見直しとは誰にでも可能であり、自分の役割や能力や生活の中に見出していくものであり、その集合体が日本文明ということになる。

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