古代から明治維新までの権力奪取に伴う移動プロセスを見ると、大きくは西から東への移動を主としている。

出雲国譲りから神武東征は、日向から起こって出雲、日向から移動して大和という西から東への移動プロセスを伴う。

奈良京都圏内で細かく遷都し、移動することは別の見方が必要だが、ここでは同位と考え、平安までは変わらずと見る。

鎌倉は頼朝が愛知県生まれということもあるし、権力が京都から鎌倉へ東に移動した。

江戸幕府は、家康は愛知県から江戸だからやはり西から東。

東から西への移動は室町が鎌倉から京都、織田豊臣が愛知県から滋賀県、大阪府だから東から西。平家を入れるとすると京都から福原だから東から西。

こうしてみると、西から東への移動は比較的安定するが東から西へ移動する場合、不安定、短命、変動、動乱、権力構造の大転換などが起こる傾向が強い。

平家の福原、織田、豊臣はどれも短く権力基盤としては短命、あるいは脆弱。

問題は室町時代。この時代に、公家の権力基盤と武家の権力基盤、あるいは両者の利権構造のバランスが崩れて武家に権力と富が集中していく。

鎌倉時代は、公家は京都、武家は鎌倉にいて、見た目権力が武家に移行したように見えるが、実質は公家勢力と武家勢力の利権の分散した時代だった。

後醍醐天皇が天皇親政を掲げて立ち上がったのにはそれなりに理由があったと言えるだろう。この時代は西の「京都勢力」が東の「鎌倉勢力」に飲み込まれていく時代だったから。それまでの日本史における力学の中で、「異質な」エネルギーや負荷がかかった時代だったと言えるのではないか。

室町時代は、南北朝、観応の擾乱など国家を二分する大動乱を経て、義満から数代は安定するが、やがて応仁の乱が起ると再び国を二分する大動乱に陥り、京都は焼け野原となり灰塵に帰し、以降日本列島はコントロール不能な戦国時代へと突入していく。この間、京都の公家勢力は経済的基盤を著しく棄損し、彼等を中心とする文化はこの時点で完全に崩壊したと言えるだろう。

足利尊氏の挙兵から大阪城落城までの期間を、日本史の「逆順」の時代だと規定したい。この時代、権力奪取のベクトルは常に東から西へ向かっていた。家康が江戸に開府した時点で「正順」に戻る。

江戸期は、日本全土が武家社会の権力基盤と利権構造に組み込まれた時代。その意味で武家政権による安定期とも言えるし、公家勢力の安定期を平安時代とすれば、それに相当するだろう。

足利尊氏というのは複雑な人間であり、後醍醐天皇を敬愛し、弟を心から愛したが、結局いずれとも反目していく。尊氏というのはある意味、日本史の巨大なエネルギーに取り込まれて、自らの運命に翻弄された人物だとも言えるし、「時代」の霊魂が彼の一身に乗り移ったかのような役割を演じさせられたような人物であるとも言える。彼は日本史の「逆順」の象徴である。

明治維新における変動は、ある意味、室町期以上の、日本史上かつてないほどの大変動が恐ろしく短期間に行われたはずであるが、国家が分断されることもなく、清のように、西欧列強によって切り取られることも起こらなかった。国内の動乱も「武家社会の全否定」というとてつもない権力基盤の一大構造変革であったにしては最小限に留まったと言えるだろう。

西郷隆盛が西の鹿児島から東の江戸へ入城した。西郷隆盛は、神武東征と同じく、西から東への移動プロセスを経た。

日本史において、西から東への移動プロセスは「正順」であり、東から西は「逆順」と捉えることができるのかもしれない。さてこれを風水的に見るとどうなるのだろう。

こうしてみると、「逆順」の室町時代に西欧列強や大陸からの侵攻が起った場合、日本は大混乱を起こしていたかもしれない。国家の分断あるいはそれ以上の大混乱が起こっていただろうか。その意味で、この時代に海外からの圧力がなかったのは幸運であった。

我々現代人の印象からすると、室町時代とは、義満の栄華、金閣、銀閣、世阿弥、能狂言と言った雅で文化的な香りばかりが先行している。

しかしこの時代の日本は武家の凌駕と公家への圧迫の最中でさまざまな「不穏」や「確執」が京都という地政の中で潜伏した時代であったと言えるだろう。

近年、東京から京都への遷都の話があがることがある。しかしそういうことを行う際には注意して行わなければならない。

日本史における東から西への移動プロセスは不安定や国内の大動乱、あるいは何がしかの根本的な構造の変化や終了を象徴するように思われるからである。

マッカーサーは東(アメリカ大陸)から西(日本)と見るのか、西(西欧社会)から東(日本)と見るのかだが。地理的には東から西と見るべきだろう。外圧をどう捉えるかはまた別の問題かもしれないが。

(写真:鶴岡八幡宮境内にて)

Exit mobile version