日本を記述する最古の資料として「魏志倭人伝」は特に知られているが、それについての信憑性に関する一つの論考のなかで、1735年(享保二十年)、これは徳川中期で八代将軍吉宗の後期に属するが、その時代に当時の明国で書かれた日本史の記述に関する紹介があった。

以下長いが抜粋。内容的には相当に「面白い」。

「日本にはもと王があって、その臣下では関白というのが一番偉かった。当時関白だったのは山城守の信長であって、ある日、猟に出たところが木の下に寝ているやつがある。びっくりして飛び起きたところをつかまえて問いただすと、自分は平秀吉と言って、薩摩の国の下男だという。すばしっこくて口がうまいので、信長に気にいられて馬飼いになり、木下という名をつけてもらった。信長の参謀の阿奇支(アケチ)というのが落度があったので、信長は秀吉に命じて軍隊をひきいて攻めさせた。ところが突然、信長は家来の明智に殺されてしまった。秀吉はちょうど阿奇支(アケチ)を攻め滅ぼしたばかりだったが、変事を聞いて部将の行長らとともに、勝ったいきおいで、軍隊をひきいて帰り、明智を滅ぼした。」(「明史日本伝」より 出典「日本史の誕生」岡崎英弘より)

笑い話か冗談話みたいに話が歪んでいるが、これが明国政府の正史だとすると、彼らの描く日本史は確かに相当に危うい。

邪馬台国というのは間違いなく「大和國」ヤマトコクで疑いないが、首都までの行程などの記載を日本人は「大真面目で」詳しく追っているが、いくら追っても答えが出ないのは当然だろう。

(写真 明智光秀像 wikiより)

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