他者依存という体質が身に染みてくると人は卑しくなっていく。

米国に軍事で依存し、経済で中国に依存するという現代日本の構図。

人は何かに依存すると、依存するものの意向に逆らえなくなる。「親」の気分次第でああする、やっぱりこうする、従わなければ付き合いやめるわ。

何気ない「親」の都合や気分が、自らの生活に直結していく。

だから、腹が立っても従わざるを得なくなる。かと言って反旗を翻す勇気もない。

そういう行動がしだいに人を卑しく(あるいは卑屈に)させてゆく。

表ではニコニコしているが、腹の中は真っ黒であるという。人はそうでもしなければやっていけないからだ。

そのような社会には、卑しさの権化のような「代理人」が、その中心に居座り、支配するようになっていく。

ある者は米国の代理人、ある者は中国の、またある者は朝鮮の代理人というように。

戦後日本。特に今日の日本がまさにその典型だと言えるだろう。そんな日本でいいのか。

日本国憲法を米国(占領軍)が作り、九条によって軍事を米国に完全に依存した結果、あらゆる面で日本人の「依存体質」が醸成されてきた。

「このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。」(『果しゐない約束――私の中の二十五年』)

三島由紀夫のあまりにも有名なこの一節が何度も私の心に響いてくる。

日本人が本来の高潔さを取り戻すには、少なくとも、明治憲法を制定した頃の精神に立ち返って、日本の歴史と文明を体現する憲法を日本人の手によって再構築することが先決であると改めて思う。

(写真:チャールズ・L・ケーディス 日本国憲法GHQ草案起草の中心的人物とされている)

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