織田信長三男信孝から本駒込 織田家墓所までの道
ネットニュースに織田信長の三男(実質次男)の織田信孝についての文章があった。
本能寺の変の数週間前に信長から四国平定を言い渡され挙兵の準備を整えていたが信長が横死。
明智光秀追討の総大将に祭り上げられるものの結果信長の後継者三法師の後見人とされるに留まるが、三法師を抱えたまま天下を狙う様子を疑われ秀吉に岐阜城を包囲され降伏。
柴田勝家の挙兵に応じたが敗退し、最期は知多半島に落ちのび、源頼朝の父義朝の墓所のある寺院で切腹する。墓所は義朝の墓地に並んでひっそりとある。辞世の句は、
“昔より 主討つ身(内海)の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前”
という話が書いてあった。
豊臣家の最期を予見するかのような辞世だなと。
そう言えば自宅近くの寺に「織田家墓所」という大きな五輪塔があったことを思い出す。
調べたら、天童藩織田氏墓所。この墓の初代は信長の子信雄から5代目になる信邦と考えられる。信雄は信孝の異母兄弟。
信邦は信雄の所領上州小幡藩7代藩主であったが、彼が重用した上席家老吉田玄蕃が、江戸攻略を説いた尊皇家の山県大弍の門弟であったことが原因で小幡藩主の座を追われる。(明和事件)
この事件後にできたのが天童藩ということになる。初代藩主は信浮。信邦は養父であり実父は信邦の父信栄。2万石の小藩で藩政は相当に厳しかったらしい。維新後天童県から山形県へ。
天童藩は江戸後期にできた藩だが、その原因とも言える明和事件の中心人物、山県大弍は甲斐国巨摩郡出身の神主で垂加神道の創始者山崎闇斎の弟子筋。
山県氏は甲斐武田氏家臣の山県氏の家系だが、明治の元勲山県有朋は安芸武田氏の家臣の系列で同族であろう。安芸武田氏は毛利元就に滅ぼされた。実は安芸武田氏の方が甲斐武田氏の主筋にあたるはず。
山県大弍の著作「柳子新論」は士農工商は階級ではなく職業分担である、とし人間尊重と尊皇論を説いており、長州の吉田松蔭もこれを読んだという。
大弍は、江戸中期の人だが維新の源流の人物とも言えるだろう。
小幡藩家老の吉田玄蕃が藩内の権力争いから、敵対者に、吉田が倒幕運動に加担していると藩主に告げ口するものがいた。
藩主織田信邦は吉田玄蕃らを処分したが、幕府はこの処分を幕府の許可なく行ったとして彼を蟄居謹慎とされ、信邦は藩主の座を追われた。
大弍はこの事件によって死罪となった。
吉田玄蕃の子吉田守隆(通称 大八)は天童藩家老だが、奥州鎮撫使として長州薩摩仙台軍の先導役を務めて庄内藩と交戦。
ところがその後鎮撫軍の内紛に巻き込まれた結果、奥羽越列藩同盟に加わらざるを得なくなり、天童藩は反鎮撫軍となるに及び、その責を追って切腹した。
長州の桂太郎は吉田守隆に逃亡を勧めるも、藩主に迷惑がかかると断ったという。
以上、戦国時代の一つのストーリーから、色々なことが繋がった。
(写真山県大弍を祀る甲斐市の山縣神社 山梨観光推進機構サイトより / 織田家墓所 文京区向丘 高林寺)

