facebook上で他の方の板で書き込みをしていたら、昔父親がよく言っていた言葉を思い出した。

父親が私に、お前はもっと勉強しろ、と揶揄した。すると私は、

「勉強なんてして何になる。無意味だ。」

と言った。自分は若い頃から理屈っぽかったのである。 すると、父親は、

「無意味か。面白いことを言う奴だなお前は。」

と言いつつ、

「戦争中に物事をやたら深刻に考える人間がいた。ああいうのはよくない。深刻に考え、思いつめる奴はいかん。お前もあまり深刻に考えるな。」

と言った。当時の私からすれば、要するにごたごた屁理屈こねてないで勉強しろということであって、腹立たしい気分は収まらなかった。

実際、30代くらいまで父親の言葉の本当の意味を理解できなかった。

恐らく古来から、何も考えず、体を動かす、とか何かを実行する中で物事の真理を体で覚えるということは、日本人的な生き方の中で大きな位置を占めてきた。

ある種、禅道というか、修道、修行の意味あいもある。何事も「道」になる。

思考や理屈を「雑念」と捉えてこれを本能的に取り除こうとする価値意識のようなもの。

体で覚えることの重要性。「理屈っぽい」言い方をすれば、魂で感じる、とか。魂と肉体の一体化と言ったような。

少なくとも私が若い頃までは、理屈をこねづに、物事に取り組め、というような仕事の仕方を重視する人々が多くいたように感じている。

それは一方で、日本人の言葉下手、論争下手ということに繋がっているようにも思える。

しかし、そういう生き方を極めている人は、思想や理屈を極めている人よりも、実際は深い境地に達している場合が多い。

日本人の民度というものがそういうレベルの意識に支えられているようにも思える。

戦争で生死を分かつ狭間に生きていようが、泰平の世の中に生きていようが、そのような境地に達している者の心は平穏なのであろう。

日本人が古来から社会を有意義に暮らしてきた、生き方の工夫であり、処世術でもあり、死生観でもあるのかもしれない。

父親の死の少し前、横須賀の軍港巡りの船に一緒に乗ったことがある。父親は港の向こうの海を見ながら、
「日本の土を見るのはこれが最期になるかもしれないな、と出航する時、毎回思ったことを思い出す。」
としみじみ語った。

父は終戦間際に小笠原への物資補給船の護衛の任務をしていた。

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