以前、倭国大乱(和国大乱)と女王アマテラス(女神)の出現との関係について書いた。
倭国大乱の記述は、支那の史書による。支那の史書の記述には、随分後の明代の史書ですら、日本についての記述に、名前の誤りや出来事に関する齟齬があり、確実な歴史として、これを見ることはできないが、大凡その時代にそのようなことがあったということは間違いのないこととして捉えることができるだろう。
和国大乱以前の日本は、九州起源と考えられる和国の他、三輪(ヤマト地方)、出雲、丹後、高志(上中下越)、吉備、他独立王国に近い政体が拮抗して争いが絶えなかったと考えられる。
統一王朝がいつできたかは定かではないが、神武天皇の系譜に連なる王が天皇として、主として東海以西の日本国を「大和」として統一した。
以下、前回の記述から、
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支那の歴史書に出てくる「倭国大乱」について見てみると、
魏志倭人伝では、
「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」
其の国、本亦(また)男子を以って王と為し、住(とど)まること七・八十年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴(へ)たり。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼(ひみこ)と曰ふ。祭祀を事とし、衆を導いた。(中略)卑弥呼死するを以って大いに冢を作る。
(「鬼道」を祭祀と変えている。「惑わす」という文字は導くとした。これも支那の周辺国に対する蛮族扱いに関連していると思われるので。)
後漢書東夷伝では、
「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
桓帝・霊帝の治世の間(146年 – 189年)、倭国に大乱あり。互いに攻め合い、長年主となるものがいなかった。年長だが未婚の、卑弥呼という名の一人の女子が有り、祭祀を用いて衆を導いた。卑弥呼を共に王として立てた。
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和国大乱が起こり、男王(男王達)が女性の王を共同で立てることで乱世が収まったという事実。
その後、天皇は、永遠の国家安泰を願って、その女性の祭祀王をアマテラスとして伊勢に祀った。要するに日本の国柱を女神として祀ることにしたのだと書いた。
和国大乱と言えば、その後の日本史の中でそれに匹敵する不安定な時代があった。
応仁の乱の勃発から戦国時代の終焉までのおよそ120年から130年ほどの期間がそれにあたる。
この期間、伊勢神宮の式年遷宮が中断された。
詳しくは、内宮を基準にしてみると、
寛正3年(1462年)12月27日
(第40回式年遷宮ー内宮)
から
天正13年(1585年)10月13日
(第41回式年遷宮ー内宮)
までのおよそ123年間である。
この間、アマテラスは岩戸隠れのように日本国において機能不全に陥っていたと考えて良いのではないか。
こう考えると、女王(女神)の不在と日本国の不安定とは歴史的に、やはり関係があると考えてよい。
因みに、中断された式年遷宮を復興したのは、織田信長である。
信長は一般的に天皇の位を狙った権力者として語られることが多いが、熱田神宮の信長塀の寄進など神道を重んじた事実から見て、個人的には「日本国を復興した人物」と私は解釈している。
また延暦寺や一向宗等仏教勢力と敵対したが、これは当時仏教勢力が権力に入り込み本来のあり方を逸脱した勢力になっていたこと。
また一向宗などは「独立国」を形成しかねない、信徒衆の中で独自の社会を構築しつつあり、これも日本という国家が分裂されかねない状況があったことを、信長は感覚的に感じていたのではないか。
また、江戸の水戸学に始まり明治維新に至り、日本が西洋列強の侵略に抗するべく、政体を天皇を核とした中央集権国家へ変貌させる、その流れの原点的な位置に信長があったと私は考えている。信長がその流れができるように「国体」を整理した。
話をアマテラスに戻すが、日本国の安定をはかるための核心としてアマテラス「女神」の存在を今後も見ていく必要がある。

