日本史にうごめく魂の確執を解く鍵 ― 「和魂洋才」から「和魂和才」への推進力を創る
以前から、靖国神社の英霊の祀り方について大きな問題点があると私は思ってきた。そのことについては何回か書いたこともある。
石原慎太郎氏は生前、靖国神社に佐幕派の御霊をお祀りしないのはおかしいと何度も言っていた。
私の記憶するところでは、彼の生前最後の仕事は、亀井静香氏と靖国神社に行って佐幕派の、特に会津、長岡、あるいは西南戦争、函館戦争で戦死した佐幕派の人々の御霊もお祀りすべきだと訴えに出向いたことだったように記憶している。
この確執は、古代史まで遡ると、日向/出雲の神々の問題にまで行くことになるが、とりあえず直近の出来事として、上記の幕末から明治にかけての日本人を二分した問題を解決する必要がある。これをやらないと日本はまとまらない。
10年ほど前まで、明治の歴史は無批判に称賛される傾向にあったが、近年明治維新が批判され、江戸時代の日本を称賛する意見が多くなっている。この問題の根源には、上記の問題が根底に絡みながら、明治以降、欧米の資本が日本国に流入し、これを淵源として、日本文明の破壊が進行し、大東亜戦争に至って日本の「文明の本質」は破滅の危機に到達した。戦後GHQは、これを見事に完成しつつある。というものだ。
確かにそれは正しい。
しかし、問題の本質はそこだけではないと私は思っている。問題の本質は、もっと古く、古代から続く日本人の魂を二分する、神々とその子孫達の確執に由来するものである。
幕末から明治維新、そして、大東亜戦争による日本文明の崩壊。戦後の保守と右翼。自民党内の岸派と田中派の確執。これらはみな全て「日本人の魂を二分する神々とその子孫達の確執」が根源に横たわっている。
それに疑問と感じるのであれば、歴史をひもとき、その時代時代の中心人物達の出生地やバックボーンを調べると良い。ここに語っていることの事実がかなり鮮明に明らかになるはずである。
自分が7年前にFacebookに書き込んだ文章がある。徳川慶喜の御霊を祀る神社を建立した方が良いのではないかというものだが、この書き込みの後、当時面識はなかったが、徳川家広氏(次期徳川家当主)にメールを出してそのような主旨のことを書いて送ったところ、ご丁寧にも返信をいただいた。
「徳川慶喜の御霊は上野の東照宮にお祀されておりますからご参拝ください」
直後、私は東照宮に参拝へ伺った。
徳川慶喜という人物は、良くも悪くも語られるが、彼が大暴れしていたら、日本ははるかに大きな内戦に突入して混乱し、場合によっては国が二分、三分していた可能性もある。そこへ西洋列強が入り込みさらに日本の崩壊は早くに進んだだろう。今頃日本は朝鮮半島みたいになっていたかもしれない。
これと同じような状況は、江戸幕府開府前の関ケ原の役前後にもあったが、家康と秀吉は西洋の植民地主義の本質を見抜き、徳川幕府は、鎖国して西洋からの「文明侵略」を防御して上で、全国に「松平藩(親藩)」を要所要所に配置して国家を統一した。(これによって日本の「三河化」が進行したという問題点もあったのかもしれないが)
幕末から大東亜戦争に負けるまでの日本は「和魂洋才」について多くの知識人たちが苦闘していた。水戸学や国学に端を発し、昭和期にはそれらを敷衍した日本文明のあり方を模索した論考や思想も数多く出ている。
昭和初期に「和魂洋才」の思想は、その全盛を迎えたと言ってよいが、その活動は敗戦と同時にほぼ完全に失われた。
西洋文明を取り込まなければ、西洋列強の圧力に敗北する。西洋文明を受け入れ、それを日本文明の中に最善の形として、さらに文明力を強化するにはどうしたらよいのか。あるいはそれは本当に可能なのかどうか。そのような激しい論戦が敗戦直前までの日本にはあった。
翻って、飛鳥時代から江戸時代までは「和魂漢才」であった。
大陸からの文明を受け入れなければ、日本の国力を強化し、大陸勢力に対峙することはできないと考えた古代以降の日本人はそれを取り込んだが、途中、平安時代、江戸時代には、「漢才」優越の国情に疑問を呈する意見を取り入れる人々が現れ、国風文化、あるいは国学が生まれた。
西洋文明を、日本文明をより強化するために取り入れるための活動は、今後も同じように必要なプロセスになるだろう。
昭和20年8月15日以降、ほぼ思考停止状態に陥ったこの問題を再興する必要があり、近年はその動きもまだ小さいながら活発化しつつある。
来年以降、日本国内において、このような動きが活発化することになると私は感じている。
特に若い人たちを中心として、大きな動き(ムーブメント)になる。
それはやがて「和魂和才」を結実させていく力になるだろう。
以下、これに関連する過去の書き込みの転載。
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日本国発展の礎としてー德川慶喜神社建立の必要性を問う
徳川慶喜がいなければ日本は大混乱に陥り、清朝同様、隙に乗じた西洋列強の餌食になっていたでしょう。 下記は大政奉還上表文の現代語訳。
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○十月十四日の徳川慶喜の奏聞。
天皇の臣である、この慶喜が、謹んで日本の歴史的変遷を考えてみますと、昔、天皇の権力が失墜し藤原氏が権力をとり、保元・平治の乱で政権が武家に移ってから、私の祖先徳川家康に至り、更に天皇の寵愛を受け、二百年余りも子孫が政権を受け継ぎました。
そして私がその職についたのですが、政治や刑罰の当を得ないことが少なくありません。今日の形勢に立ち至ってしまったのも、結局は私の不徳の致すところであり、全く恥ずかしく、また恐れ入る次第であります。
まして最近は、外国との交際が日に日に盛んになり、ますます政権が一つでなければ国家を治める根本の原則が立ちにくくなりましたから、従来の古い習慣を改め、政権を朝廷に返還申し上げ、広く天下の議論を尽くし、天皇のご判断を仰ぎ、心を一つにして協力して日本の国を守っていったならば、必ず海外の諸国と肩を並べていくことができるでしょう。
私・慶喜が国家に尽くすことは、これ以上のものはないと存じます。しかしながら、なお、事の正否や将来についての意見もありますので、意見があれば聞くから申し述べよと諸侯に伝えてあります。そういうわけで、以上のことを謹んで朝廷へ申し上げます。
以上
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明治以降、政治の世界にあって、あるいは陸軍と海軍の政争。各軍内の派閥抗争を鑑みるに、幕末維新における、それぞれの魂がいがみあい、結果それが第二次世界大戦における日本文明の崩壊に繋がった。
しかもそれは、戦後の政治抗争にも繋がっている。
日本海観戦の指揮官は東郷平八郎(薩摩出身)であり、真珠湾攻撃の指揮官は山本五十六(長岡出身)である。
明治以降の国体を終焉させる機縁をつくったのが山本五十六であった。
もちろん本人にそのような悪意があるはずもない。しかしこれこそが、私がここ最近考えてきた日本史における魂の確執を表している。
戦後の政界の抗争もしかり。岸信介(長州出身)と、その後の田中角栄(新潟出身、長岡にほぼ近域)との確執。
表面的には、親米、親中という形をとっているが、元を正せば幕末期の勢力争いの残滓がこういう形をとって争いの形態を形作っているに過ぎない。
親中、親ソの源泉は、戦前からの生粋のマルクス主義者達が、戦後の民衆の「米国憎し。鬼畜米英」との教育を受け、戦争が終わった途端に、アメリカ様になった権力者への「凄まじいばかりの怒りと失望感」を利用して勢力拡大を図ったものであり、それはある種、日本解体を意図する占領軍の目論見とも合致したからである。
このような日本人の魂のもつれを解消するには、明治維新において、明治以降の最大の魂である明治天皇の明治神宮と同様の「慶喜神社」の建立こそが必要なのではないか。
あたかも、出雲の国譲りに際して、出雲大社が建立されたことと同義である。(もちろん天皇と德川将軍家は対等ではないが) これこそが、この国を真に一つとして、これからの真の日本国発展の礎にすべき中枢ではないか。 私はそう感じたのである。
(写真 : 上野東照宮本殿/東京谷中墓地 德川慶喜墓地)
(2015年9月15日(火) 21:24)

