日本人は歴史的に切腹という文化があるため純粋な自裁というものもある。
これは自分の死を持って何かに代えるという犠牲的精神の究極表現の一つかもしれない。
もっとも近年においてこのような形の死を迎えるものはほとんどいないと言える。
日本人に自殺者が多いのはこのような文化的背景と決して無縁ではないというものの、自身の環境に追い込まれての自殺とは区別する必要があるだろう。
日本は仏教的思想の背景もあって、肉体と魂を分けて考え、この世の無常や、この世の姿は仮の姿だと捉える考え方は特に平安期以降から死生観の一つとして一般化している。
能の謡曲などの題材や平家物語に通底する概念はこのような思想が貫いている。
歌舞伎役者の市川猿之助は、事情聴取でこのように語っているという。
「私たち親子は仏教の天台宗の敬虔(けいけん)な信徒で、死に対する恐怖はありません。自殺が悪いことだとは考えていません。私たちは輪廻転生を信じています。生まれ変わりはある、と本気で考えています」
恐怖がないと言いながら死にきれなかったのは矛盾しているが。それはさておき。
ただ死ぬことで生を仕切り直しできるのであれば、死ねば良いということになる。
輪廻転生に関する思想にはこのような安易さと危険性を孕んでいるのは事実だ。このように考えてしまうと人生が嫌になったなら死んだ方がマシということになる。
しかしわたしの所見及び考察からすると、肉体と魂が別のもの、あるいは肉体は魂の宿り場だと考えた場合、例え肉体を自ら滅ぼしたとしても、魂は生きている時と何も変わらない。同じだ、ということになる。従って死んでも、その魂の精神性や意識活動や思考形態などの根本的な様相に変化がない。
ネガティブな輪廻転生ということも念頭に置かなければならないだろう。
従って、自死によって自らをリセットすることにはならないと考える。
人は人生や魂の変わり目あるいは「変わらねばないない」状況に追い込まれた時、同時に環境的にも追い込まれることが多いが、そのような過程で目の前が真っ暗になることもある。
それを「凶兆」と捉えるか「善兆」と捉えるかで魂が次の景色を見ることになるかどうかの瀬戸際にあると言えるだろう。
真に生きるということは自らの魂にリスクをはることでもある。
畢竟、生死を越えるということは、生を怖れぬということであり、与えられた天命は全うして初めて「次の生」に正しく繋がるものと考えるべきだろう。

