高天原がどこかということに関しては古くから何万という書籍が出ている。

一番良く言われるのが、中国の南部。これ以外にも太平洋の南方域、インド、中東域など。国内だと九州北部・南部、関東、飛騨など。

渡来人の総称を天孫族として、その源郷を高天原と思考するのが普通だが。渡来人(人間)の移動というのは「横軸」だ。

古代祭祀は山が中心で山の頂上に祭祀場を設けて祭祀を行い、終わると全て片付けた。例えば、鹿児島や富山などには二上山とされる山の頂上に祭祀場、あるいは神社の原型としての施設があったと伝わっている。山岳信仰の大半は信仰する山の頂上に奥宮がある。

渡来人が自分達の「源郷」を想う時、山の頂上に行き、上を見上げるだろうか。

私なら海岸に行く。

古代の山岳信仰。山の頂上での祭祀は「縦軸」である。

高天原についてのさまざまな説を見るとそれぞれなるほどと思うところもあるが、人間の移動説としてはそれぞれ説得力があったとしても、移動元を「高天原」だと考えると、いつも心のどこかで違和感がつきまとう。

学者や評論家は実証的な考察ができないことを説くと、自分の評価が下がり、キワモノ扱い、バカ扱い、別カテゴリーの人扱いされるので「高天原=天外」と言う人はいないが、実際には、地球外(あるいは非物理的な)と考えた方が理屈に合う。

仮に自分が渡来人だとして。例えば中東から来たとして、私たちは「天」から来たなどと言うとは思えないし故郷を「高天原」だとも言わないだろう。それが自身の権威付けだったとしても。

そんなこと言ったら、突拍子もないと考えるのは古代人だろうと現代人だろうと同じである。あまり古代人を馬鹿扱いしない方が良い。

古代人も現代人もそれほど感性に変わりはない。現代人がそれほど優れているとも思えないし、そのように考えるほど古代人に比べてまともになったとも私には思えない。便利にはなったが。

新撰姓氏録では、渡来人は自分達の出自源郷を詳しく記載しているが「天=源郷」から来たと主張する者はいない。それとこれとは別である。

聖書の天の民・地の民・受肉などという言葉も現代人の言う「科学的考察」よりもシンプルに空の上(物理的・空間的あるいは超物理的・別次元的に)という方向性で見たほうがしっくりくる。

聖書と日本神話などのこのあたりの話は同一現象についての表現だと考える。

しかし、こう書くと、スピリチュアル系の妄想世界の住人みたいな話が巷にあふれていて嫌気が指すのも事実。

インフォメーションとディスインフォメーションは必ず混在する。それを切り分けるのがインテリジェンスでもあるのはどの世界でも同じである。

いずれにしても「縦軸」「横軸」の発想で見た場合「高天原」「天孫降臨」「天孫族」などの言葉は「縦軸」で見る方がよりスマートであろう。

古代のエジプト人やマヤ人たちがあれほど天文に固執した理由は何か。こういうことも併せて考えてみる必要もあるだろう。ただのロマンであれほど正確な天文学や暦学は不要である。

ただ今のところ「科学的」に人がそれを実証できないということだけが問題なのである。

写真:天の逆鉾(by ぽらぽら)

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