昔は現代のように情報社会ではないから、本人確認などほぼ不可能だ。共に生活したものでなければ本人と確定できる根拠はない。一族親族でも顔を知らない者もあっただろう。従って、替え玉、すり替え、生存説、というのは、事実と同じくらい信憑性のある場合もあるだろう。

真田幸村、豊臣秀頼、安徳天皇などにも生存説、すり替え説などがあり、以下に自分が実際に経験した話で、以前書き出したものを多少改変して再度掲載する。

真田幸村生存説 薩摩から秋田へ

「信濃屋の家は真田幸村の末裔なんです。」

信濃屋とは随分変わった名前である。以前知り合ったある女性の名前がそれだった。

秋田県大館市の出身だという。伝説とは言え、実際に伝説所有の本人に直接会うと、そうかもしれないと思われてくる。幸村本人とまでは言えなかったとしても、一族又は家族達がそのような経路を辿ったということはあり得るかもしれない。

私が会った信濃屋さんはそれほど歴史に興味があるわけでもなさそうだったが、親から聞いている話として聞かせてくれた。

曰く、幸村は夏の陣では死んでおらず、影武者をたてて脱出。島津義弘を頼り、秀頼とともに、海路薩摩へ落ち延びたという。信濃の商人、「信濃屋長左衛門」を名乗り、薩摩の南、頴娃(薩摩半島の南端付近)という場所に隠れ住んだというが、義弘が他界すると、息子と共に薩摩を出、全国を行脚。ついに大館 岩神に辿り着いた。息子の大助は、八十九歳の長寿を保って元禄十五(1702)年四月三日に他界した。

秋田県大館の一心院には、幸村親子の墓碑と位牌があるという。寺の情報によれば、一族は後、飯田姓を名乗ったとあるが、私が知り合った人は信濃屋のままだった。この家系自体も分家したものと考えられる。いろいろな記録が寺にあったらしいが、火災にあって紛失してしまったらしい。別の文章によれば、子孫が所有する「信濃屋旧記」「飯田家覚書」なる古文書が伝わっているという。

これとは別に伊達藩士に真田家があり、これは紛れもなく真田氏の末裔で、落ち延びた一族を伊達藩がかこった。この真田氏は幸村の次男、片倉守信の家系。彼にも死亡説があったらしいが実際には生き延びており、家系は幕末まで伊達藩士として生きた。片倉の名は姉(幸村の三女)の嫁ぎ先の名であり、守信も同家に引き取られたことによるという。

豊臣秀頼生存説 薩摩へ

上記説に伴って、秀頼の生存説もあり、鹿児島市上福元町字木之下(現 鹿児島市谷山中央4丁目)には、秀頼の墓もある。木之下という地名は豊臣の旧姓木下にちなんだものだという。伝説では六十八歳でこの地で亡くなったという。

一説によると秀頼をこの地に案内したのは真田幸村とその一行だったといい、幸村の生存説も島津氏に一時かこわれたという話からして真田幸村の生存説と話が一致する。

安徳天皇生存説(対馬安徳天皇陵) 島津氏と婚姻し対馬へ

対馬を車で走っていたら、「安徳天皇陵」と言う小さな立て看板が道路脇にあった。細い山道で、車が一台ようやく通れるほど。ほとんど人が訪れることがない林道のような道を山の上まで上がること5ー6分。

詳しい案内板がある。以下、

対馬の中世史は宗氏の入国に始まる。宗氏の出自は諸説あるが、ここ久根田舎の住民は古くからこの土地の字名は全て安徳天皇にちなんだものと伝えられているという。

そして村人はみな宗氏を安徳帝の直系だと信じているのだという。

説によれば、壇ノ浦合戦の際、従臣斎藤為持が帝を抱き筑紫に逃れた。筑紫の少弐資頼が鎮西守護となり密かに天皇を奉じると、帝は島津氏の女を娶り、二子をもうけられた。これが初代宗重尚、二代助國であるという。

幸村生存説にも安徳帝生存説にも島津氏の名が出てくるのは興味深い。

寛元四年、宗氏が対馬を領すると筑紫吉井から安徳帝を迎え、この地に御所を設けた。建長三年(1251年)四月十五日、七十四歳で崩御という。

当山付近は、御所があったところで、陵墓は末広がりになっており、納言殿塚、重臣や御乳母女官墓があり、天皇御料の馬塚犬塚などの古墳があるという。

安徳天皇陵とされるところには宮内庁の案内板があり、「佐須陵墓参考地」となっており、単なる伝説の域を超えた何らかの信憑性を感じさせるものである。実際に安徳帝がいたかどうかは確かな証拠はないものの、その近侍の女御や警護の武者が落ちのびたということは充分に考えられる。

この話を対馬の宗氏一族の「拍付け」のため、としてしまえばそれまでだが、それとこれとは別ものと考えても何の違和感もない。

安徳天皇生存伝説というのはいくつかあるが最も信憑性が高いのは宇佐八幡神主家の宇佐氏家伝安徳天皇すり替えの話であろう。これについては宇佐氏神主家が書籍を出している。壇ノ浦で入水したのは宇佐家の替え玉で本物は対馬で余生を送ったというのも面白い話。

日本では古来より「おめこぼし」的な発想があり存在するものを見て見ぬふりをして見逃すということがある。平家はそれで頼朝を残して自らの命脈を絶った。だから頼朝は徹底的な平家狩りをしたが、結局自分の家系はわずか三代で滅び、桓武平氏の北條氏に吞み込まれてしまう。人間のすることは思い通りにはいかないものだ。

写真:対馬 久根田舎 安徳天皇御陵墓(宮内庁参考地)

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