ウパニシャッドに発するインド思想では、永遠不滅の魂(アートマン)が存在し、これが死後別の肉体に宿る、すなはち人は永遠に輪廻転生を繰り返すとする。ヒンドゥー教では基本的にこの思想を肯定しているようだ。(ただし、インド思想にはさまざまな考え方が存在する)

ブッダはこの説に異を唱えた。

人が死後別の母体に宿るのは、その人(意識)にこの世(例えば、地球上の物質世界)に対する執着や煩悩や業があるからで、これらから解き放たれることでその意識は人へ輪廻転生することから離脱(解脱)できる。

日本ではこのことを広義の意味を含め「成仏」と呼んだ。

その意味でブッダは永遠の魂(アートマン)というものは存在しないと説いた。

般若心経に代表される縁起の法とは、このロジックを説明したものだ。因があれば果がある。果があるのは因があるからである。従ってこの因を消し去ることで果はなくなる。

「これは何かの因縁に違いない」
「因縁がなくなる」
「ご縁がある」
「ご縁がない」

などという表現は、日本では様々な状況で使われる言葉だが、その通りで人が生まれ変わるファクターもまた、因によって生じる。

これあるによってこれあり
これないによってこれなし
それがあるからそれが生じるのであり、それがなければそれは生じない。

日本の仏教の僧侶で、単純に

魂などない!

とものすごい形相で断言する者がいるが、本当の意味を理解してこのような発言をしている者がどのくらいいるのだろうか。大概は勘違いしているように思える。

ここからは私の考えだが、

上記のブッダのいう言は正しいとする。しかしブッダがその後のことに関して発言しているかどうか私は知らない。もしかすると何か言っているかもしれない。

私は、上記のようなプロセスを経て人間として転生するファクターを失った意識は、いよいよ「神」の世界へ入っていくものと考える。

「魂」という表現には、上記によって2種類ある。

人間として永遠に輪廻転生を繰り返すファクターとしての「魂」。

それらの因を脱して純粋な意識体となった状態としての「魂」。確かにこのレベルになるともはや魂とは呼べないのかもしれない。

アートマンという永遠不滅の絶対的に輪廻転生するところの魂というのは私も信じないが、ブッダの解く「解脱」状態に通常の人が達することはまずないだろう。

その意味では通常、魂は存在すると考える。

でなければ、墓など必要ないし、人がなぜ靖国神社へ参拝するのだろうか。「魂」がなければ神社も墓も必要ないだろう。インドには基本墓がないが、人の死後魂は肉体から抜けて別の肉体に宿るのだから「亡骸」にはもはや何の意味もない、という考え方があるのだろう。

神社では死後人の魂を祀るが、祀ることでその魂を鎮魂(人間的な執着や怒りや恨みを禊祓う)し、人の祈りによって神の意識へと変容させる(あるいは定着・留まる)施設であると私は考えている。

もちろんそれに相応しい魂が祀られることになる。祈りを捧げた者は変容した魂から加護されるというのがごく分かりやすいロジックである。働けばそれなりの報酬があるのと同じことだ。

一方、「魂」ということに関してグルジェフはさらに興味深いことを言っている。以下は原文そのままではない。概略を簡単に記す。

ある弟子に彼は言った。

「窓の外に木があり、多くの実がなっている。あの実が熟し地に落ちて再び大樹となる種がどれほどいると思うか?」

「ほとんどいないでしょう」

「人間も同じだ。人に魂が形成されるというのは大変なことで、生まれてきて魂を持つ者は、滅多にいない。人には魂があると普通言うがそれは違う。あの木からでる種と同じで木に成長するものはほとんどいない。魂を持つに至る者も同じでほとんどいない。」

この話を知ったのは比較的最近のことだが、非常に衝撃的だった。

先日、地球人口の推移を書いたが、西暦0年の地球人口は3億。江戸時代初期(3代家光の頃)ですら5億程度である。それがたった500年弱で15倍に膨れ上がった。

人間の「魂」というものの状態は、現代においては、非情に厳しいものであろうと私は感じている。自らを例外にするつもりもない。

2050年には地球人口は90億になると推計されているようだが、それはないだろう。

尚、これら魂についての考え方はあくまでも私の私見である。違う考え方もあるだろう。人それぞれの考えがあって良いと思う。否定するつもりはない。

人それぞれに探求を深めていけば良いだろう。

この文章が何かの参考になれば幸いである。

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