キリスト教徒の待望する「救世主」は彼らの唯一神の降臨だろう。キリストが救世主なのか。再臨する神はキリストなのか。キリストは神の使いなのかは別として。いずれにしても彼らが待ち望むものは「唯一なるもの」だろう。

救世主になりたがる人がいる。自分が救世主だと。キリストの再臨なんだと。ブッダの生まれ変わりだと。人は唯一のものになりたがり、人から崇められたいという願望があるように見える。

豆腐職人はどうか?豆腐職人は救世主になれるだろうか?豆腐職人は救世主に相応しくないだろうか?
豆腐職人というのはひとつの例えだ。自動車工場の整備士でもいいし、大学の研究員でも警察官でもいい。とりあえず豆腐職人としておく。

唯一の救世主にしかこの世は救えないのだろうか。この世を救える救世主は唯一なのか。

極めれば神の道に通じる。という考え方があっただろうか。

豆腐職人が自らの道を極め、ある時ふと気づいた。

「このようにして作ればあの病は癒やされるだろうか。」

豆腐に病を癒す力を備える可能性はある。

キリストが触れただけでその病が癒えたとして。

そのような力が救世主キリストにのみ備わったものとは限らない。

アインシュタインの発見は彼の脳の記憶の集積の結実によるものだけではないだろう。直感・直観によるかもしれない。霊感によるかもしれない。何がしか別のものの介在があった可能性がある。

八百万の神々の世界のこの世への現出は、豆腐職人の覚醒にかかっているかもしれない。

豆腐神の降臨に期待し、さらにあらゆる分野の神々の降臨が期待されている。

言霊という考え方がある。

「志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さきは)ふ國ぞ福(さき)くありとぞ」(万葉集 柿本人麻呂)

「言」と「事」は同義であろうか。言葉には魂が宿り、宿りしものは姿形を現す。

言葉に魂を宿す力が与えられたならば、豆腐に魂を吹き込むことも可能だろう。

「ヨハネの福音書」第1章冒頭にはこうある。

「初めに言があった 。言は神と共にあった 。言は神であった 。この言は初めに神と共にあった 。すべてのものは 、これによってできた 。できたもののうち 、一つとしてこれによらないものはなかった 。この言に命があった 。そしてこの命は人の光であった 。」(『口語訳 新約聖書』日本聖書協会著)

柿本人麻呂が言霊の詩を詠んだのは700年頃であろうか。それ以前にも日本にこの考え方があったのか彼が初めてこの言葉をもって大和の国を現したのかは定かでないが、ヨハネの言葉との起源は同じであろう。
因みに柿本人麻呂という人物の出自は不明である。

一切万霊に魂が宿るというのは仏教思想からとも言えるが、仏教伝来以前から存在していたように感じている。それを仏教が言語化しただけだろう。

日本人は仏教という思想に依らずともそのような感覚を体に身につけているように思われる。それは宗教というよりも「生活感覚」の一部である。

このようなライフスタイルは、日本、沖縄、ハワイ、オセアニアなどに古代からあるように見える。しかしそれが「文明」として形を残すのは日本のみ。その他は現代文明に覆われ「習俗」としてのみわずかに形を残している。

現代文明と古代文明を「習合」するのは日本のみ。そこを我々は意識化してゆく必要がある。

我々は救世主になる必要もなければその出現を待つまでもない。我々一人一人が生きながら生活さながらにしてそれぞれの救世主足り得る可能性を模索できるはず。

それが八百万の神々の世界を出現させ得る。それが聖書世界の待つ世界と重なってゆく。

Exit mobile version