「保守派」という人たちがいる。
「反グローバリスト」という人たちがいる。
「右派」という人たちがいる。

それ以外にも様々な極めて大きな意味での「保守派」的なカテゴリーに入る人々がいて、そこにそのシンパみたいな人々がいて、主軸になっている人が言っていることと同じことを叫んで、それと違うことを言う人間がいるとぶっ叩いたりしている。

理屈や思想ではなく『日本という柱』を己の魂か心中に打ち立てることの重要性を問いたい。

私の場合、自分の柱というのはどんなことがあっても壊れることはないが、それが=この国の将来の形であるかどうかは別問題だろう。

こんなことを言うと「妥協かよ」と思われるかもしれないが、私がどれほど泣き叫ぼうが、妥協しようがこの国はある方向に流れていく。「保守派(総称)」は、

いや違う。叫ばなければならない!

というかもしれない。確かに叫ぶ価値は間違いなくある。

最近はテレビドラマでも「保守派(総称)」の抵抗を念頭に置いてドラマの脚本作成しているものも散見されるからそれはそれで意味があるだろう。テレビ業界もしだいに世代交代が進んでいてこれまでの「反日左翼」みたいな連中の影響力も緩やかにではあるが弱まってきているかもしれない。テレビの出演者だろうと誰だろうと個人にはいろいろな思いがある。

しかし、終局的なこの国の姿は恐らくそれ(個々人の思い)で決まるわけではないだろう。

それは歴史を深く観察すればわかる。

そういう「物の道理」を理解せず、

「保守派(総称)」が先鋭化してカルト化し、ルサンチマンの集団となってこの国からスポイルされることがあってはならない。

ニーチェはユダヤ人の宗教を「ルサンチマンの宗教」だと言った。そしてそれが今人間社会を覆いつつ崩壊しつつある。

日本の歴史を見る時。私はいつも思う。

天狗党のようになるな。と。

日本にこだわる(愛する)あまりに日本を敵に回すようなことがあってはならない。

この国を愛する形には人によってかなりの開きがある。

ちょっと違うことを言って、その人を否定し敵視する。思想や理念で人を「品定め」する。

そういうことの結末の一つに水戸藩の結末があると私は思う。彼らの勢力の大半は内ゲバで崩壊し主要な人物は明治以降誰も残らなかった。

もっと日本という国、日本人。そして日本や日本人を愛する人々のことを信じることが重要だ。国を愛するということは難しい。妥協とは全く違う。

しかし、我々個々人がいかにこの国を思おうと、終局的にこの国の行く末の有り様、道筋を決めるのはこの国の「先霊」や「神々」の意志だと思った方が賢明だ。いずれ我々も「先霊」になる。

もしそうでないなら、日本という国はもう捨てられたものと思って仕方ないと思う。

もしもうそういう国であればこの国の役割や価値はなくなったものと思えばいい。たいしたものではない。死んだ先まで追う価値のない国だ。

しかし、私個人はまだ見捨てられていないと確信している。

まだ、見捨てられてはいない。

内容を多少編集:2025-12-18

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