絶対的精神=唯一全能の神などあるのか?
そもそも森羅万象を完全に把握し操作し理解する唯一の存在などあるはずがない。馬鹿げている。幼稚な戯言だ。
神といえど全てを把握しているわけではなく全てをコントロールできるわけでもない。
人間精神の、魂の延長線上にあるが人間よりは遥かにましな存在群。それを日本人は神々と呼んだのであって、この方がはるかに科学的で現実性がある。
アメリカの娯楽映画が幼稚に感じるのはそういうことと関係があるだろう。
古代ユダヤ人が言う意味と現代人の幼稚な宗教的世界観には大きな齟齬があると言うことも言える。
彼らの唯一絶対とは、ユダヤ民族を守護するという括弧付きの前提の話に過ぎない。
知人と酒を飲みながらこんな話をした。知人…
海外に行くと食料はほぼ 価格=質 価格=…
道祖神(女性)の原型
神奈川県相模湖にある湖内の道祖神。どうも高尾付近にはこう言った不思議なものが多い。
最近は良縁成就のパワースポットとして有名なんだそうである。
江戸時代まで江戸の市内には男根の形をした道祖神が市中いたるところに「林立」していたらしいが、文明開化で海外からの客人に不快感を与えないようにとほとんど撤去されたと言う。
ペリー来航の時、彼は日本人いついてこう書き残している。
「日本人は他のアジア人に比べて比較にならないほど礼儀正しいにも関わらず、男女が裸で混浴している。極めて淫蕩な民族である。」
混浴=淫蕩
と考えること自体が淫蕩ではないかと思うが、確かに歴史的に見て、日本人は「好き者」あるいは「開放的」であったことは間違い無いようだ。
明治時代の初めに熊本県のある村に民俗学の研究で滞在した西洋人の報告によると、
「この村の女性はみんな集まると助平な話で大盛り上がりになる。全く屈託もなく性の話をするのに驚いた。」
話を相模湖の道祖神に戻す。説明によればこの道祖神は湖に沈んでおり、しかも珍しい事に女性の道祖神であると。
初めは分からなかったが、遠くから見て理解できた。
2枚目の写真に写っている綺麗な三角形の小高い山の真ん中が窪んで洞窟のようになっている。そこが道祖神の「神域」ということになっている。
なるほど、そういうことかと。
村の者達のあっけらかんとした、楽しげな会話が目に浮かぶ。
孤独について ー 個から集 そして全にいたる
孤独という人の想念については古今多くの人々が思考し直感し、語り続けてきた問題の一つである。
個人主義が西洋に勃興しそれが世界に広まるにつれてこの問題はその重要さと深刻さを増しているかに見える。
どれほどそれについて語ってみたところでそれ自体の本質的な問題が解決することはなかった。
しかるに、個が個であり、その個としての人間が、あるいは魂が、孤独を感じるのは逃れられない。
日々多くの人々に囲まれて和気あいあいと暮らしていればそれを感じることはないが、人が全て去り一人になった時、たちまち孤独感が襲う。
人といる時は、個は個としての自分を感じることなく生活可能であり、要するに忘我でいられるからであろう。
しかるに個が個でないとするならば。
我は集なりとするならばどうか。
我の中に無数の魂魄の思念や意思が同梱され、一つの個としての体裁を取り得ているという。
全ての物質は、なにがしかの寄せ集めで成り立っている。それは常に変化している。一つの「不動の物質」として永遠にとどまることはない。
しかるに個とは何か?
それは一時的の寄せ集めに過ぎない。
それが我を我と感じ、日々あれこれと動いているのでろう。
しかるにそれがひとたび散じれば、また別の要素と寄せ集まり、個を生じる。
個は一時的のことに過ぎない。
個は集であり集は、結論的に全へと繋がる。
そう考えて行くと孤独という概念は本来存在しないのではないかと思われる。
従って私たちは孤独を感じる必要はないということになる。
理性的と感情的(本能的)について
己が魂を鎮魂する
西洋は理性主義を重視して自らの言動の高きを主張する手段としている。よって我々の意思と文明は高貴であるのだと。
しかし、人間は結論的に感情で動いている。
理性とは、人が感情的に揺らいでいない時のみに適用される精神状態に過ぎず、理性的世界は「感情的人間」としての精神世界構造の一部に含まれている。
感情が理性を凌駕することはあっても理性が感情を凌駕することはありえない。
よって二者は対立的存在にあらず。
人が最終的な選択や決断をする最大の起因は感情による。
「理性的」を重視する西洋文明の歴史を見ると、その大半は実に感情的な爆発の連続である。
これをどう説明するのか?
人が理性的に判断しえた、と考えられる状態はそれを、その問題を、その時の状態が、その人にとって感情的に是認されたものであるから可能であったに過ぎない。
理性的、は感情が振れていないときに起こるが、人の感情の「振れ」る起点が何処にあるかには個人差がある。
-100度がポイントの者もいれば100度がポイントの者もある。
したがって-100度で理性的になれる者と100度でなれるもの、0度でなれる者の判断や選択は自ずと異なる。
あるいは「あ」という状態で理性的になれる者もいるが「い」でなければ理性的になれない者がいるというわけである。
では我々は何を最善とするのか?
自らの魂が鎮まり、かつ拡がりを持った状態であることが理想的であろう。
まつろわぬ神を鎮魂するが如し
己がまつろわぬ魂を鎮魂すべしと
日頃より己が魂を鎮魂しなければならない。
それは己が関わる先霊や自然霊や神霊を求め、それの御霊の安らぎと増益を求めるということでもある。
我々の魂は個なる魂ではなくそれら関わる魂魄の集合点の一部あるいは一角であるからに他ならない。
真実を突きつけても、それを受け入れるかど…
一神教の成立起源に関するごく簡単なメモ
今調査中ではあるが、一神教、すなはち、ユダヤ・キリスト・イスラムの成立の起源をたどると、まず民族の分岐がある。
「アブラハムの宗教」と言う言葉があるが、ユダヤ人とアラビア人の祖の父親は同一でアブラハムという人物。
彼は当時シュメールに住んでいた。
シュメールは多神教文明で、都市によってそれぞれ主祭神を決めて信仰していた。
それがある時、ある都市において、特定の神を最高神と位置付けた。
これが唯一神へと繋がり、やがて一神教が生まれる起源になったと考えられる。
大本を辿ると、一神教の起源とは、かなり「政治的」な理由に過ぎないようである。都市国家同士の争いのようなものが起源である可能性が極めて高い。
ユダヤ・キリスト・イスラム共に、モーセの十戒における言葉
『わたしのほかに神があってはならない』
が、一神教成立の起源とされるのかもしれないが、さらにたどればそれは政治的な理由によってそうなったんだということが言えるようである。
(写真:アブラハムの墓 wikiより)
