この国の歴史に震える瞬間

大江戸線の新御徒町を降りて地上に上がるとすぐ、古めかしいアーケード街がある。

「佐竹商店街は日本で二番目に古い商店街です」

という垂れ幕が下がっている。

商店街の終わりあたりにこの商店街の歴史を記した看板があった。

この地域一帯は江戸時代まで現在の秋田県の佐竹藩(久保田藩)の上屋敷があり、この商店街のある地域を含む広大なものであった。(現在の台東区台東三〜四丁目の半分ほどのエリアであったとある。)

明治になり御屋敷が取り壊され「佐竹っ原」と呼ばれていたところに次第にこの商店街が出来始めたようである。

最近、こう言った「歴史痕」を見るにつけ思うことがある。

日本の武士階級、特に大名家は幕府方、外様方に限らず、その資産規模はとても大きなものであったはずである。

しかし、それを明治維新という変わり目に際してほとんど文句も言わずあっさりと捨て去った。それはこの国がおかれた危機というものを上から下まで共有したことの証である。

ごく身近な外国においては、自分の権力を維持するために、国民だろうが国土だろうがズタズタに切り裂いても平気でいるような人間が指導者として君臨している。

世界史を見ればそれはかなり「普通の事」である。

翻って、自分の国のことについてあれこれ知るにつれ、あたかも「人ごとのように」この国の過去の事績に震えるほどの驚きを感じる瞬間がしばしばあるのである。

信仰者を増やすことは精神病患者を増やすことだ

と、ニーチェは言った。

彼はキリスト教に関する持論を述べた「アンチキリスト」と言う書籍の中でそのようなことを言っているが、キリスト教に限らず宗教というものにはそういう側面がある。

かく言うニーチェ自身も晩年は精神を病んだのであるから皮肉と言えば皮肉な話であるが、彼もまたキリスト教文明の病と闘い、その病の中に倒れたということか?

それはさておき、

人の信仰が深まるにつれ「真実」や「真理」などどうでもよくなる。信じているもの以外見たくもないからである。それに刃向かうものには容赦ない。人がこれ以上冷酷になれる瞬間はないだろう。

それは歴史が証明している。

どうしてこのようなことになるのか。

その多くは、彼らの信仰を支える「教え」がそうさせるのである。

だから私は神道に教えがないことを極めて評価しているし、ポスト「宗教」としての神道の役割について声を荒げたいということである。

現代人のようにある程度成熟した魂に、強要されるべき共通の教えは必要ない。

「教え」に変わるものは、それぞれの価値観や日々の活動や人生やあるいは神々と向き合う中で見出して行けばいい。分かち合える中でそれを共有するのもいいだろう。

しかし、神道は昔からそうだ。

だから神道は宗教ではないと言われる。そうだろうと思う。ある意味「超」宗教の概念だと言えるだろう。

キリストにせよブッダにせよ、彼が見たもの、訴えたかったもの、知らせたいものはあったし、それはそれぞれに人類にとって尊いものだ。

しかし、彼らの没後、それらを信仰するものが増え、教団が成立し、そこで飯を食わねばならない人が多数出てくると、あるいは自らの欲のため、布教のため、人を離さないために口から出まかせを言う。

頭の良い僧侶が現れて御託を並べ始める。

するとそれらが時間と共に「崇高」で「深淵」なる「真理」へと変貌するのだ。

そんなものにがんじがらめに縛られて日々を送れば頭がおかしくなってくるものもいるだろう。

そんなことをキリストもブッダも望んではいまい。

これが「教え」の正体と現実というものだ。

そうは言うものの、そういうものの中には、命がけで智慧をしぼりだして得た、有益な理論や思想、概念、言葉もあることは付け加えておきたい。

それらは学べば良いのである。

日本文明も良きは学び、己が胎中に取り込んできたのであるから。

素直にそうすれば良いのである。

ただここで「教え」というものの弊害を強調しておきたいと思ったのである。

旧約の創世記の起源

旧約の創世紀の起源は、ユダヤ民族の成立以前から存在する神話から後のユダヤ人が自らの「唯一神」信仰という観点から改変したものだろう。

創世神話の起源は現段階で知られているのは洪水伝説などがみられるシュメール神話にあるが、そこには創世においての「神々」の活動が記されているわけである。

神が人を作ったと言う話をユダヤ民族の話に限定するならば、ユダヤ人の起源はアブラハムである。

アブラハムを唯一全能の神に例えるならば、ユダヤ人にとって「唯一全能」であったとしても、アブラハム以外にも人はいる。

考え方としてはそういうことだ。

キリストが人類の創生についてどのように語ったのかは知らないが、ユダヤ民族にとっての「唯一」を人類全体の唯一だと言って「教勢拡大」の火をつけたのはパウロであろう。

当時、激しい迫害を受けていたユダヤ人の信仰を救ったのもパウロなのかもしれないが。

パウロと言う人は現代でいえば「カルト教団」の教組のような体質の人間である。

しかし、パウロの思想は宗教的権威と政治的権威を二分したと言う意味で権威と権力の分散を促す先鞭ともなっている。

(写真: 神にひとり子イサクを捧げようとするアブラハムと、それを制止する天使。レンブラント『アブラハムとイサク』、1634年。wikiより)

絶対的精神=唯一全能の神などあるのか?

そもそも森羅万象を完全に把握し操作し理解する唯一の存在などあるはずがない。馬鹿げている。幼稚な戯言だ。

神といえど全てを把握しているわけではなく全てをコントロールできるわけでもない。

人間精神の、魂の延長線上にあるが人間よりは遥かにましな存在群。それを日本人は神々と呼んだのであって、この方がはるかに科学的で現実性がある。

アメリカの娯楽映画が幼稚に感じるのはそういうことと関係があるだろう。

古代ユダヤ人が言う意味と現代人の幼稚な宗教的世界観には大きな齟齬があると言うことも言える。

彼らの唯一絶対とは、ユダヤ民族を守護するという括弧付きの前提の話に過ぎない。

道祖神(女性)の原型

神奈川県相模湖にある湖内の道祖神。どうも高尾付近にはこう言った不思議なものが多い。

最近は良縁成就のパワースポットとして有名なんだそうである。

江戸時代まで江戸の市内には男根の形をした道祖神が市中いたるところに「林立」していたらしいが、文明開化で海外からの客人に不快感を与えないようにとほとんど撤去されたと言う。

ペリー来航の時、彼は日本人いついてこう書き残している。

「日本人は他のアジア人に比べて比較にならないほど礼儀正しいにも関わらず、男女が裸で混浴している。極めて淫蕩な民族である。」

混浴=淫蕩

と考えること自体が淫蕩ではないかと思うが、確かに歴史的に見て、日本人は「好き者」あるいは「開放的」であったことは間違い無いようだ。

明治時代の初めに熊本県のある村に民俗学の研究で滞在した西洋人の報告によると、

「この村の女性はみんな集まると助平な話で大盛り上がりになる。全く屈託もなく性の話をするのに驚いた。」

話を相模湖の道祖神に戻す。説明によればこの道祖神は湖に沈んでおり、しかも珍しい事に女性の道祖神であると。

初めは分からなかったが、遠くから見て理解できた。

2枚目の写真に写っている綺麗な三角形の小高い山の真ん中が窪んで洞窟のようになっている。そこが道祖神の「神域」ということになっている。

なるほど、そういうことかと。

村の者達のあっけらかんとした、楽しげな会話が目に浮かぶ。