孤独について ー 個から集 そして全にいたる

孤独という人の想念については古今多くの人々が思考し直感し、語り続けてきた問題の一つである。

個人主義が西洋に勃興しそれが世界に広まるにつれてこの問題はその重要さと深刻さを増しているかに見える。

どれほどそれについて語ってみたところでそれ自体の本質的な問題が解決することはなかった。

しかるに、個が個であり、その個としての人間が、あるいは魂が、孤独を感じるのは逃れられない。

日々多くの人々に囲まれて和気あいあいと暮らしていればそれを感じることはないが、人が全て去り一人になった時、たちまち孤独感が襲う。

人といる時は、個は個としての自分を感じることなく生活可能であり、要するに忘我でいられるからであろう。

しかるに個が個でないとするならば。

我は集なりとするならばどうか。

我の中に無数の魂魄の思念や意思が同梱され、一つの個としての体裁を取り得ているという。

全ての物質は、なにがしかの寄せ集めで成り立っている。それは常に変化している。一つの「不動の物質」として永遠にとどまることはない。

しかるに個とは何か?

それは一時的の寄せ集めに過ぎない。

それが我を我と感じ、日々あれこれと動いているのでろう。

しかるにそれがひとたび散じれば、また別の要素と寄せ集まり、個を生じる。

個は一時的のことに過ぎない。

個は集であり集は、結論的に全へと繋がる。

そう考えて行くと孤独という概念は本来存在しないのではないかと思われる。

従って私たちは孤独を感じる必要はないということになる。

理性的と感情的(本能的)について
己が魂を鎮魂する

西洋は理性主義を重視して自らの言動の高きを主張する手段としている。よって我々の意思と文明は高貴であるのだと。

しかし、人間は結論的に感情で動いている。

理性とは、人が感情的に揺らいでいない時のみに適用される精神状態に過ぎず、理性的世界は「感情的人間」としての精神世界構造の一部に含まれている。

感情が理性を凌駕することはあっても理性が感情を凌駕することはありえない。

よって二者は対立的存在にあらず。

人が最終的な選択や決断をする最大の起因は感情による。

「理性的」を重視する西洋文明の歴史を見ると、その大半は実に感情的な爆発の連続である。

これをどう説明するのか?

人が理性的に判断しえた、と考えられる状態はそれを、その問題を、その時の状態が、その人にとって感情的に是認されたものであるから可能であったに過ぎない。

理性的、は感情が振れていないときに起こるが、人の感情の「振れ」る起点が何処にあるかには個人差がある。

-100度がポイントの者もいれば100度がポイントの者もある。

したがって-100度で理性的になれる者と100度でなれるもの、0度でなれる者の判断や選択は自ずと異なる。

あるいは「あ」という状態で理性的になれる者もいるが「い」でなければ理性的になれない者がいるというわけである。

では我々は何を最善とするのか?

自らの魂が鎮まり、かつ拡がりを持った状態であることが理想的であろう。

まつろわぬ神を鎮魂するが如し

己がまつろわぬ魂を鎮魂すべしと

日頃より己が魂を鎮魂しなければならない。

それは己が関わる先霊や自然霊や神霊を求め、それの御霊の安らぎと増益を求めるということでもある。

我々の魂は個なる魂ではなくそれら関わる魂魄の集合点の一部あるいは一角であるからに他ならない。

一神教の成立起源に関するごく簡単なメモ

今調査中ではあるが、一神教、すなはち、ユダヤ・キリスト・イスラムの成立の起源をたどると、まず民族の分岐がある。

「アブラハムの宗教」と言う言葉があるが、ユダヤ人とアラビア人の祖の父親は同一でアブラハムという人物。

彼は当時シュメールに住んでいた。

シュメールは多神教文明で、都市によってそれぞれ主祭神を決めて信仰していた。

それがある時、ある都市において、特定の神を最高神と位置付けた。

これが唯一神へと繋がり、やがて一神教が生まれる起源になったと考えられる。

大本を辿ると、一神教の起源とは、かなり「政治的」な理由に過ぎないようである。都市国家同士の争いのようなものが起源である可能性が極めて高い。

ユダヤ・キリスト・イスラム共に、モーセの十戒における言葉

『わたしのほかに神があってはならない』

が、一神教成立の起源とされるのかもしれないが、さらにたどればそれは政治的な理由によってそうなったんだということが言えるようである。

(写真:アブラハムの墓 wikiより)

キリスト教信者の悲哀

全世界にキリスト教信者は、二十億人ほどいるらしい。

発信地であるユダヤ・ヨーロッパ文明圏及び、ピューリタンの新天地で信仰する西洋人達は別として。

世界中で植民地帝国主義時代に侵略され自らの文明と領地と自らの尊厳を奪われた地域の多くにキリスト教信者がいる。

南米、中南米、フィリピン、朝鮮半島などは代表的であろう。

彼らはなぜ自らの土地とルーツに根差した神々や祖霊や自然霊を敬うことをしないのだろうか。完全に忘れてしまっているのが大半に思える。

これは厳然たる事実だが、そういう地域の大半は、先進国にはなれず、治安が不安定で、価値観の混沌とした社会の中で、極端な貧困に喘ぐ者が人口の大半を占める厳しい社会である。

自らの起源に全く目を向けず、「別の土地の神」を信じるということ。

別にそれを信仰しても構わない。しかし同時に自らの起源に根差した神々や祖霊に目を向けるべきだろう。そういう心を全く失った地域は「永遠に」真の発展と幸運の恩恵を受けることはないと私は確信する。

それは「支配者」の望みでもあるのだろうか。

その土地の奥深くに鎮まり、完全に虐げられ、深い眠りについているこうした神々や祖霊達が、そこに住む人間に全く顧みられることのない社会。それが世界の多くの地域に存在するのが現状である。

私はキリスト教を否定するものではない。

それはそれを信仰する必然性のある地域や民族において信仰されるべきであり、それはまたそれらの人々にとって重要なことであるだろう。

日本文明が、土地に根差す神々や祖霊や自然神を祀ってきたことは我々にとって極めて重要な意味を持つ。

他のほとんどの地域にはそのような習慣が今やないからである。

世界の不安定化とこのような問題は密接に関わっている。

文明の一極化。単一化が進んでいる。しかし、現実にはそれに全く噛み合わない地域においてもなかば強引にそれが進んでいることからくる矛盾や魂の亀裂が進んでいる。

日本人は、そういうことまで捨てて「世界標準」の波にのまれ、それがいいんだ。みんな一緒だから、という感覚に陥って自らの文明を捨ててしまったならば、もはやこの国になんのポテンシャルもプライオリティーもなくなるだろう。

世界と同じがいい。なんていうのは「愚民の思考」に過ぎない。

日本がここまでこれた最大の原因は、とりあえずこれまでは、決定的に「愚民」に導かれなかったということであろう。

世界の全ての人々は、自らの土地と歴史に根差した、先霊や神々や自然霊を敬うことを始めるべきではないか。

しかし、己の信仰を捨てる必要はない。キリストの神を信じても構わない。しかし、それだけではあまりにも「不遇」である。

国家・国境の曖昧さとはここにある。文明圏・文化圏の設定を重視せよとはそういう意味である。

(写真:エルサレム聖墳墓協会 出典:https://plaza.rakuten.co.jp/mana9/diary/201711240001/)

昭和天皇陵(武蔵野陵)・皇后陵(武蔵野東陵)

八王子市の高尾駅から徒歩20分ほど。

昭和天皇皇后陵と大正天皇皇后陵は同じ敷地内にある。

墓ではあるが、これほど清々しいお墓というものはないだろう。天皇陵は大概そうだが。

敷地内の雰囲気は明治神宮や鹿児島県大隅半島にある吾平山上陵に似ており、陵墓と言うよりは神社というか神域のようである。

大正昭和天皇には神社がないため、この地を訪れるのが良い。

新しい御代を前に、数年ぶりで訪れた。

高尾駅 山王社

江戸時代に村人が山に薪を取りに行った際、死んだ猿を見つけ、これを葬り祠を建てた。

以降、これを祀り、年に一度(四月初申の日)の祭礼は今も続いているという。

アジアには動物を聖なるものとして尊ぶ風習がああるが、こういう由緒の神社は初めて見た。

一切万霊。猿も神になります。