高尾駅 山王社

江戸時代に村人が山に薪を取りに行った際、死んだ猿を見つけ、これを葬り祠を建てた。

以降、これを祀り、年に一度(四月初申の日)の祭礼は今も続いているという。

アジアには動物を聖なるものとして尊ぶ風習がああるが、こういう由緒の神社は初めて見た。

一切万霊。猿も神になります。

グローバリズムは最終的に共産革命を引き起こす

グローバリズムとは結局形を変えた植民地帝国主義に他ならない。帝国主義が重商主義に変わっただけのことである。

企業利益は人の幸福とは無関係に増幅し、反比例する。

企業の進展は人の幸福には全く結び付かない。

企業はより安い労働力を求めて、より賃金の安いエリアに移動していく。

その一方で、先進国内においてもより安い労働力を企業側が要求し、より低い賃金でも働く、非先進国からの移民を要求する。

先進国内における賃金は低下するか、さもなくば既存の労働力が社会から疎外されてゆく。

移民は「低賃金労働者」であることを求められているだけであり、彼等が高賃金労働者への道を開くことは難しいだろう。

既存の文化文明の圏内に、異文明・異文化の人々が単に「低賃金労働者」としての要求にのみ応じる形で入り込む。

それは、あらたな差別社会を産み出し、もろもろの紛争や迫害の温床になるだろう。

一方で既存の住民の大多数もまた決して等しく豊かになるわけではなく、国内の諸状況におけるフラストレーションが増幅してゆく。

「低賃金労働力」としての異文化、異民族が既存の住民に拮抗するに従い、暴動や革命の機運が高まるだろう。

結局、グローバリズムの最終到着点は、新たなる「共産革命」の勃発に他ならない。

しかし、それは理念を伴ったものにはならず、単なる「感情的爆発・暴発」「怨念」という形で起こるだろう。

結果それは文明というよりは、これまで人間が積み上げてきたことの、人間社会の、あるいは人間生活の破壊のみをもたらしてゆく。

次にそのような現象が世界規模で起これば、長期間に渡り、人間の良い意味での「進展」は期待できない状況になるだろう。

人間の自業自得と言えばそれまでだが、それを阻む新たな価値観を日本人が日本文明の価値観から導き出す必要がある。

一神教文明から生み出されるさまざまな価値観は、結局、何をやっても結論が同じことの繰り返しに過ぎず、いずれ、あるいはしだいに人間社会が退行していくことを助長するだけのことに過ぎない。

欲望・富・価値意識を一か所に集める活動を止めるということだ。そういう価値観を人間個々の目標に設定することを止めるということだ。

価値の分散。分立。八百万。

価値観が変わるだけで人間社会全体の意識は変わり、社会構造も生活スタイル全般にいたるまで変化していくことになる。

国家・国境に代わる新たな価値意識、文化圏・文明圏の設置。これがまず必要になる。

神人 吉田松陰

ここ数日、吉田松陰とは何かについて考えた。

信長と似ていると直感したが、よくよく考えてみれば随分違ってもいる。(前記事参照)

では何故そう感じたのか。

ふとある考えが浮かんだ。

「吉田松陰とは、神人ではないのだろうか?」

神道では神人という言葉がある。

そう思った瞬間に全てが腑に落ちた。

まず、そう考えた最大の理由が一つある。

松陰の全人生を見渡しても私的活動がほとんど見当たらない。

と言うことである。

三十年という極めて短く、かつ若年の青年が、わずか十年に満たない期間に、何故これほど多くの人を動かし、国の命運にまで、大きな影響を与えることができたのか、そして今だに多くの人を魅了し続けるのかは、大きな疑問であった。

しかし、彼を常人でない、神人であると考えた時、全てが腑に落ちたのである。

信長も神の化身のようであるが、信長とは違うタイプの神であろう。松陰は純粋である。

しかし、神人ということが、私が直感的に感じた二人の共通項であると解釈できた。

吉田松陰とは、日本の神々の神霊の化身か、神霊が宿ったのか、憑依したのかわからないが、何れにしても神人であったことは間違いないように思える。

キリスト教カトリックには列聖会議というものがあって、聖人か福者かを会議で決定するが、神道にもしそのようなものがあったとしたら、確実に聖人に列するだろう。

ジャンヌダルクは聖人である。

その意味で松陰神社があるというのは誠に理にかなったことであると思う。

日本史には時として、危急存亡の時、かくいう神人が現れる。

日本人が神々を大切に思う心を持ち続ければ、これからも「松陰」は現れるに違いないと信じる。

(写真 浦賀 松陰象山邂逅の碑、乃木神社摂社 正松神社 、東京世田谷 松陰神社境内 吉田松陰墓所)

信長と松陰は似ている

先日、明治維新から現代にいたる歴史的プロセスの起点に信長がいると書いた。

信長の天才的先見性とそれを現実化するための果敢な行動力と発想力。

松陰の才気ほとばしる先見性と過激なまでの行動指針。そしてそれを支える国への激烈なる思い。

支配者と教導者という立場の違いはあるものの、過激な革命家(あるいは革命的変革者)という意味でも、その気質においても両者には共通点がある。

この二人が、心中に秘めた「国のかたち」を理解するには百年かかるだろうと、本人たちはそう思っていたに相違ない。

先週、吉田松陰の末裔の方とお会いする機会があり、お話を聞いたり、文章を拝見するなどしているうちに、ある言葉が浮かび出た。

「命をかける。身命を賭す。命に代えても。などという言葉を簡単に言う人がいますが、まことに耐え難いのです。玉木家(松陰の生家)は、男はみな死に急ぐものばかりで、残ったものは女ばかり。後に残されたものがどれほどの思いをしたことか。考えてほしいのです。」

その言葉のすぐ後ろに、吉田松陰が影のようにぼんやりと浮かびあがる。するとその言葉の重みにずしりと刺さるものがあった。

男の影に女あり。女の影に男あり。相反するものが共に交わりながら人間社会は成り立っていく。

「死は好むべきにあらず、また悪むべきにあらず。道尽き心安んずる、すなはちこれ死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり、心死すれば生くるも益なきなり、魂存すれば亡ぶも損なきなり。死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあればいつまでも生くべし。僕が所見にては生死は度外におきて、唯、言うべきを言うのみ。」(『松陰全集』より)

檄文である。

するとこんな謡の文句が浮かび上がる。

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり 一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」

信長の辞世の逸話に出るこの謡は、松陰の言葉と意味するところは少し違うものの、死生観に流れるある共通性を禁じ得ない。

このような言葉を言う人のごく身近にいる人々にとっては、我々が知るよしもない、さまざま複雑な思いがあるに相違ない。

しかし、松陰という、維新の「金字塔」が日本と、そして結果的に世界史を回天させる機動力・原動力になったことは疑うべくもない。

信長に始まり松陰に帰結する。

過激な二人の革命家(あるいは革命的変革者)は一瞬にして時代を駆け抜け、そして去った。

現代日本に至る道 ー 明治維新の原点に信長あり

現代日本に至る道筋を辿ると、織田信長が起点ではないかと思う。

信長以前と以降では国の形がかなり違うのではないか。

それ以前は権力の分散がかなり大きかったこと
権力基盤に宗教勢力が絡んでいたこと
兵農分離を進めたこと

信長は宗教を否定しなかったが政治や権力あるいは支配構造の中に入り込むことを嫌った。

一方で応仁の乱以降滞っていた伊勢神宮式年遷宮を復興させるなどした。

信長は天皇の上に自分を置いたと言われるが、この国の神々の中の一人くらいには思っていたかもしれない。

彼は中世の混沌とした権力構造に終止符を打ち、幕末維新以降、天皇を中心とした中央集権構造を生み出すに至る歴史の流れの起点にいる。

信長以降、秀吉家康によってキリスト教が禁じられることで、政治権力と宗教勢力は明確に二分される一方、結果的に天皇を日本をまとめる軸となるべく浮き立たせた。

その中継地点に水戸学があり、江戸時代の国学の興隆がある。

信長自身は、彼の死後の日本国の形がどうなるのか、それを意図してはいなかっただろう。

世界史において、古代文明の流れを軸とした文明は自壊するか他の勢力に殲滅されるなどして、近世以降地球上からほぼ姿を消していった。

唯一日本だけが古代文明からの流れを含む日本文明として残るだけでなく世界の大きな荒波を生き抜き、かつ成功を収めたのは奇跡という他ないが、その重要なファクターの一つに織田信長の存在を忘れることはできないだろう。

信長がこの国の形において、意図したものがあったとすれば、その完成形の第一段階として明治維新があったとも言えるのではないか。

(写真 建勲神社)

豊臣秀吉とインカ帝国最後の皇帝アタワルパ バテレン追放令の真実

信長から秀吉の時代、スペイン・ポルトガル人宣教師が入国し、キリスト教を布教していたが、宣教師は本国にこのように報告している。

「日本という国は、貧しいが、人々は戦う訓練に熱心で勇敢であるから、この国を侵略するのは止めたが良い。」

スペイン・ポルトガルによる南米・中南米における南米人の大虐殺・文明の抹殺。北米におけるイギリス人による北米人の大虐殺と略奪。そして、アフリカ大陸における奴隷貿易のための黒人狩り。

こういう歴史を見ていると、そのあまりの凄まじさに、ナチスのユダヤ人虐殺はまだいいほうだと思えるほどである。(事実そうだと言っても過言ではない)

秀吉の時代にはポルトガル人・スペイン人によって日本人がさらわれ、東南アジアやインド等で売買されていたらしい。秀吉はこの事実を知ると激怒し、結果これがバテレン追放令につながってゆく。

「あなたたちは、キリスト教の布教といいながら最終的に日本を奪うつもりであろう。」

この認識は家康にも伝わり、禁教令となってゆく。

モンテスキューという歴史の教科書に出てくるほどのフランスの思想家、哲学者がいる。彼は現代社会の基礎ともなっている三権分立論を世に現した人である。

彼の主著「法の精神」という書籍に次のような記述がある。

「現に問題となっている連中は、足の先から頭まで真黒である。そして、彼らは、同情してやるのもほとんど不可能なほどぺしゃんこの鼻の持ち主である。極めて英明なる存在である神が、こんなにも真黒な肉体のうちに、魂を、それも善良なる魂を宿らせた、という考えに同調することはできない。人間性の本質を形成するものは色であるという考え方は非常に自然である。」

南米のある領主は、キリスト教への改宗を強要された際、

「キリスト教を信仰すれば天国に行けると言いますが、天国に行って再び、キリスト教徒に出会うくらいなら私は地獄に行くことを選ぶ」

と言ったという。

ラス・サカスというキリスト教宣教師は、南米における、そのあまりの残虐非道な様に耐えられず、告発文を残している。それは、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』という書籍として今も残っている。

それによれば、およそ40年の間に約1500万人の南米・中南米人がおもちゃ同然に虐殺されたのだという。

インカ帝国は高度な文明を所有していたが、人を疑うということを知らず、金にも執着心がなかった。善良なる文明の人々はなぶり殺しにされ、文明もろとも消えていったのである。

善良であっても、悪意と強欲と狂気に備えることを怠れば、その善良さが仇となる。

南米における文明消失の歴史に学ぶべき点は多い。

(写真:アタワルパと豊臣秀吉)

隠岐の話

今年は隠岐に行こうと思う。

ある書籍を読んでいたらこんなことが書かれてあった。

以下まとめ。

——

皇族は死ぬまでに必ず一回は隠岐に行くものだという。きまりではないが、そうなっているのだと。

隠岐は、後鳥羽上皇、後醍醐天皇が流されたが、実は水が豊富で食物も潤沢であるから生活には困らない。島の人々も天皇を非常に大切に扱っており、その伝統は今でも非常に根強く残っている。

この島は今にいたるまで、人から遠ざけられ、「隠された」島であり続けている。神々の手配であろうか。(最近、ユネスコの世界ジオパークに指定されてそれが崩れつつあるのだが)

島では、町の寄り合いで基金をつのるが 、それとは別に神社をお守りするための基金を別途集める習慣が今でもある。

隠岐は地質学的に日本ではない。西日本は白山の火山帯に属しているが、隠岐は朝鮮半島の白頭山の火山帯に属しており、大陸の突端で、地震がほとんどない。岩盤も飛騨(飛騨片麻岩)に続く古さ(隠岐片麻岩)だという。地質学的には日本列島と成り立ちが違う。

隠岐の語源は、「御木」。アマテラスは三度ほど地上に降りているが、そのうちの一つが隠岐であり、その際、ある木を見て、これは立派な木だということで、御木と名付けた。これが八百杉(やおすぎ)と言われており、樹齢2000年である。

隠岐は島前、島後があるが、島後は昔から名前がない。ところがアイヌの伝承では、島後を古来より「オノコロ島」と呼んでいたという。イザナギ・イザナミが降り立った際、天御柱をオノコロ島に建てるが、それは隠岐だったのかもしれない。この御柱と御木は同意なのではないかと。(一般的には、オノコロ島は淡路に近い、瀬戸内の小さな島(沼島)ということになっているのだが)

籠神社の神職曰く、この神社の神様は、伊勢と隠岐を行ったり来たりしております。と言ったという。

隠岐には、水若酢神社という一宮があるが、それより格式が高い神社が、伊勢命神社。ローソク岩のある久見というところにある。地元では、伊勢命神社を内宮。水若酢神社を外宮と言っている。

また隠岐に国分寺があり、その裏に大満寺山というものがあるが、高野山では、ここを裏高野と呼んでいるという。

布施というところには、大山神社という神社があるが、ここの山祭りは、日本最古の山祭りと言われている。榊の大木を根っこから引き抜いて、集落中を引きずり回し、神社に上げて祭事を行うものだという。(著者は、アマテラスの岩戸隠れに関わるものではないかと)

(写真 http://blog.hangame.co.jp/tabibito_/article/36266839
https://blog.goo.ne.jp/familyplot1976/e/446c113eec8058c221e5bd7d42860cf9 )