日本文明の構造を明確に図示する。これを世に出すのは初めてのことであり、日本文明の構造と、それが次代の文明に果たす意義を図にしたのは過去にないのではないかと思っている。本日、平成から新たな御代を迎えるこの年の始まりにおいて、私自身、この十年ほどあたためてきた日本文明の神髄を図によって、始めて公開する。

狐というのは西洋では聖なる動物のイメージがあるらしい。境内は超満員だが西洋人の観光客も非常に多い。京都の伏見稲荷と同じである。西洋人や中国人の観光客の多くが、狐の面を頭につけて歩いている。

日本の神道というものが、世界のこれからの中心的な価値意識を担う、あるいは中核的な価値観をサポートするということの重要な要件の一つとして、八百万の神々の並立、並存という真理があるだろう。
私たちは神社に行く。するとある神社に行くと大概その神社の摂社というものがある。いわばその神社の祭神とネットワークのある神々が並立してお祀りされているわけである。

民主主義と資本主義

現代社会というものを見ていると、

「お前も同じように劣化せよ。それが平等というものだ」

ということを社会に強制するようなシステムになり果てている。

大衆社会の愚もそうだが、常により低い基準に社会全体が引きずられ、それに伴う劣化現象に対して多くの人は何も文句が言えないと言う奇妙な現象。

社会全体が劣化すれば、人心もそれにつられて当然荒れてくる。

近代民主主義が起こって以降、それ自体が人とそこに生きる社会をよりよくする方法論として機能するものであったはずだが、いつのまにかその流れが逆行し始めた。

これでは、若い人が社会に希望が持てないのは当然だし、結局個人がどれだけ金を稼ぐか、自分だけはとりあえずよりましな生活レベルを求めるということでしか生きる価値を見出せなくなるのは当然である。

民主主義自体が、人間社会の価値を貶め、個人的な欲望を満たすことにのみ価値を見出すようにしむけている。結果的に利己主義を称賛している。

そして、「悪しき均一化」という、それを最大限に推し進める原動力こそが、資本の論理であって、より安い商品、より安い労働力を求めるためにはどんなことでもする、ということがあるだろう。資本という巨大な「人格」が我物顔で暴走する。

結局資本の論理というものが、そこにいる人々を豊かにするわけでも何でもないのに、あたかも、それこそが生きるために必要なことなんだ、それこそが社会の絶対必要条件なんだというような、何か常識のようになって優先されている。

私は共産主義とは対極の価値観を信じているものの、資本論とは、要するに資本主義の欠陥を深く分析したという意味では、極めて一考に値するというわけである。

資本論でいうところの資本主義の最終段階であるところの帝国主義とは、今現在の状況をみつつ、結論すれば、人格を伴わない帝国主義ということになる。

資本家でも政治家とか、なにがしかの権力者というのでもない。資本力という、人間ではないものに人がコントロールされる社会になっている。

唯物論とは言い得て妙である。マルクスの皮肉かレトリックか。

しかし、その資本論も、民主主義というもの、近代民主主義の価値観それ自体の欠陥にまでは思い至らなかったのである。

個人主義から、意識の繋がりのある主義。社会の共有主義。無意識の意識における緊密なる共有といったもの。

こういったものが重要になってくる。

こういう価値意識は、二元論的な、二分論的な西洋的、一神教的な価値意識からは生まれえない。

一神教的価値観は、人の意識を二分させ、分裂させる。本来は人をひとつの「究極の真理」へと導くための手法であったはずだが、皮肉にもそれが人間の意識を分断させるのである。

善か悪か、神か悪魔か、天国か地獄か。信じるか信じないか。一元化とは同時に二分化というこ.とだ。

人間の意識の分断が、結果的に人心を劣化させ、社会を劣化させる原動力になっている。

人の魂を一つの価値観に集約することが社会を繁栄させ、人間の意識を安定化させるのではなく、別々のものが並立して(平等ということではない)、互いに繋がり尊厳を得ることが今最も必要な価値観になっていくだろう。

それは日本文明から発信されるべきである。

ナポレオンも驚き、行ってみたいものだと言った国 琉球の今

ナポレオンが晩年、セントヘレナに島流しにあった際、世話係の人から、世界に唯一軍隊のない国家というものがあるという話を聞いた。

「その国には軍隊というものがなく、交易と外交だけで上手く立ち回っているというのです。」

ナポレオンは大変驚いた。

「信じられないことだが、そんな国があるのなら見てみたいものだ」

それが琉球のことであった。当時の欧州にも琉球事情というものが伝わっていたのだ。

琉球人も大和人と同様元来が温和で平和な体質の島国気質であり大陸的な狡猾や残虐さには無感覚&無経験であろう。しかし日本人には武家社会があったので事情は少し違う。

琉球が清の冊封を受け入れつつ、日本や薩摩藩とも交易し、やがて薩摩に領有されてしまうプロセスは、悲劇でもあり、彼等の油断のなせる業でもあるだろうが、清に侵略されていれば、今頃は中国領となり、人民解放軍がうじゃうじゃやってきて、沖縄古来の風習も言葉もみな全て破壊され、抗うものは収容所へ送られたり、処刑され、女性は強制的に漢人の子供を産まされる。ということになっていたかもしれない。チベットやウイグルの現状は他人事ではないのである。

沖縄が日本であったことは彼等の古代からの文明観や歴史風俗風習から見ても明らかに幸運であったことは間違いない。琉球が軍事的な見識、自らの文明的な見識を明確に持ち、日本や台湾と連邦国家的、軍事同盟的に繋がる気風があれば、独立もやぶさかではないだろう。しかし現状は全くその反対である。どう考えても沖縄にとって、日本であることは必要なことであると確信せざるをえない。

さて、沖縄が日本に返還されたことの一因として、基地に関わる諸経費やその他のもろもろの困難な事情を日本政府に押し付けたい米国の思惑もあったという。

さまざまな事情がなければ、北方領土のように、いまだ沖縄が米領であり続けた可能性もゼロではない。

そう考えた時、沖縄県民は今の現状をどう考えるのか。こういう状況の中、沖縄県民の心の隙間に中国共産党の沖縄領有への策謀が忍び込む。

自衛隊が在沖米軍に代わって地域の安全を確保する方向なら、沖縄県民はイエスなのかどうか。

台湾に米軍が進駐すれば分散できるだろう。

九州にも一部展開できる可能性はあるのか。

そもそも沖縄県民に自らの地政学的リスクがどれほど大きなものなのかの認識はあるのか。(少なくとも今現在のボーっとした面構えの県知事にはその認識はゼロか、あるいは「確信犯的」な何かの思惑があるのだろうが)

いずれにしても、それらを総合して、今後の沖縄における安全保障体制の在り方というものを決定する必要があるだろう。

感情だけで動いていると、沖縄の「実質的には共産系メディア」や潜入済みのさまざまな活動家や工作員たちが最終的に沖縄県民を今よりも数十倍不幸な状況に陥れることになる可能性もゼロではない。

彼等は初めは、平和、友好などの態度で、優しく、親身に近づく。しかし、それは彼等の目的遂行のための「ツール」だ。

日本人はこのような「優しさ」「親切心」に極めて弱い。一度心を開くと、「裏切ることはできなくなる」そう感じるものだ。彼らは日本人のそういう気質を熟知していて、逆用するのである。

彼等のマニュアルにはそのことが記されている。沖縄にすでに潜入しつくした「毒虫」を沖縄県民がしっかりと認識した上で、沖縄における米軍の在り方、日本全体の中における沖縄県内及び近隣地域の安全保障体制を真剣に考えるようになって初めて話は前に進む。

さもなければ、韓国のように、自壊していずれ中共の拠点と化し、やがて「実質的中国領化」ということになりかねない。中国共産党の目標である沖縄領有化を実現するための最大の障害が沖縄に駐留する米軍であることは言うまでもない。

近年ヴェノナ文書という文献が公開されている。米国政府によるアメリカ国内における工作員とソ連共産党との暗号解読文書のことである。戦後の占領政策とは何だったのか。今現在の日本社会に、それは、いかように影響しているのか。