神々の声を聴く力が失われた時 一神教が起こったという

西日本豪雨で大きな被害を受けた岡山県の真備町。この町名を聞いた時、恐らく神道に興味深い人間であれば、吉備真備を思い出し、それを祭神とする神社について調べもしたに違いない。

事実、真備町は吉備真備の生誕地である。平安時代ならば、このような被害がこの地に起こった時、その御霊を鎮める意味で神社を勧請するか、既にそれがあれば祭事に重きをなしたに違いない。

私もどちらかと言えば、平安人に近い面があるから、そうすべきと考えた。調べてみると真備町ではないようだが、吉備大臣宮という神社があるようだ。吉備真備という人物は遣唐使などになり、菅原道真に並び平安時代において藤原氏以外の出自で大出世をしたただ二人の人物の一人であるという。

菅原道真のように多くの政争にもまれ、何度も左遷の憂き目にあうが、道真のように不本意な最期ではなく、最終的には平穏なキャリアで一生を終えたようであるが。今なぜ吉備真備なのか。そう思うところではある。

吉備真備の御霊鎮めを行うのが良い。吉備真備の周辺の歴史と、御代替わりをめぐる出来事には何か繋がりがあるだろう。

現代人には「理性」というやつがあるから、そんな迷信じみたことはしないのだろう。ある書によると、古代人には、二心あって、ひとつは自分のことを考える心。もうひとつは、神々の声を聴く心。二つの心を持っていたのだと。

近年ではこれを右脳、左脳というのかもしれない。現代人は「理性的」だから、それを脳の機能論として捉えるのだろう。私はもちろんそうは思わないが。

しかし、たとえ機能論だとしても、いや機能論だとするならば一層、現代人において、その片方の機能が衰えてしまったのだということは間違いがないところである。

歴史的に見ると、「二心」が衰えて、人類に神の声が聞こえなくなった頃とほぼ時を同じくして一神教が起こったのだという。

「理性」と言う概念が、キリスト教文明によって発達したことは間違いのない事実である。

「神を失った」「神に見放された」

という思考はキリスト教的である。

アスペルガー症候群という病気があるが、この症状のある人には、特定の能力が極めて発達して人間離れした天才のような人物があることがある。モーツファルトもそうだったのだという話を聞いたことがあるが。

一神教という概念は、神の概念からすると極めていびつなものだと私は思っている。これはあたかも、宗教的アスペルガー症候群のようなものだと私は感じる。

だから、現代文明はいびつなのかもしれない。恐らくそういう矛盾や亀裂のようなものは必ずあるだろうし、誰しもそれを感じるはずである。

古代人にエゴ(我)と神を認知する力の両方があったというべきか、エゴ(我)が未発達であったがゆえに神の認知が可能であったのかは分からないが、恐らく人間にエゴ(我)の増幅という必要性なり欲求が起こったことは間違いがない。

人類のエゴ(我)を発達させるために、神が「一神教」というツールを人間に与えたのだと私は思っている。

しかし、一方でこういう声が聞こえてもくるのである。

「もうそろそろこの辺でいいだろう」

一神教はもう既に充分すぎるほどその役目を果たし得たのではないか。

その意味で、日本の世界史における勃興というものは、神々の采配であるようにも思えるのだ。日本という国はこの二千年間の世界史的プロセスからみると「異空間」「異端」であることは間違いがない。

(写真:『皇国二十四功 吉備大臣』月岡芳年作 wikiより)

理性とは

理性理性と声高に叫ぶ人間ほど欲深いものだ。

何事も、見た目と真実とは逆なことが多い。

理性という言葉は要するに自分の欲望を満たすための方便として、確実にそれを成就するための最善のツールとして、そして己の醜い欲深さを糊塗するための言い訳として人間が使ってきたもののようだ。

純朴さや素朴さに、素直さ、あるいは真の美しさに「理性」という言葉はほとんど無関係であるが如し。

富の分配と社会幸福達成の真理とは

富の分配の本質的な理想形態は、一か所に集まった富をできるかぎり多くの人々に再分配するということではない。

それぞれの地域、民族、文化、文明のエリア内において充分に満足感の得られる社会を世界全体として相互に促進していくことであろう。

富の集積度=幸福、社会の安定

ではないということだ。

日本はそういう意味で、かつて、朝鮮半島、満州、台湾という諸地域を管轄したが、その目的を充分に果たしえたと言えるだろう。

これまでこれらの地域における日本の地域管轄においては、負の印象ばかりを最大限に誇張されてきた。

しかし、近年になって、これら諸地域における日本の経営実態が明らかになってきており、どの地域でも、経済運営という意味では成功したのである。

一方、西洋の植民地帝国主義下の諸国が彼等の植民地経営によってその地域の真の発展に寄与したかといえば否である。こういった地域の中では近年いくばくか発展の萌芽はあるもの、それは彼等の自力によるもので、少なくとも宗主国たつ西洋国家が、植民地下の諸国の発展を意図して経済運営を行ったとは到底言い難い。

近年の中国の異常な海外投資にいたっては、さんざん資金供与しておいて、返済不能になると、借金のかたに土地を奪われ、彼等の軍事拠点にするという現状である。富のエゴイズムでしかない。

こういう観点からも今世界が最も必要とされているのは、かつて日本が目指した、相互発展&幸福度の高い社会をそれぞれの地域、文化、民族のベースメントにおいて確立するということではないか。

日本文化の基本的な気質によって、そのようなノウハウを世界に示すことができるはずである。

言うまでもないことだが、もちろん、これは再び日本が過去のように諸外国を併合するとか、政治的に管轄するということではない。

オルフェウスとイザナギ 
日本神話・文明とオリエントギリシャ神話・文明を繋ぐ複数の共通点

紀元前6世紀頃、ギリシャにオルフェウス教というものが起こった。これはブッダが生まれる前である可能性が強い。

ギリシャにおける神々への信仰とは、神と人との間には絶対的な断層があり、神は不死の存在であり、人は死ぬ。人は死ぬと地の底の永遠の闇の中へと向かわなければならない。

神に対する敬意は絶対的なもので、人は神に対して敬意をこめるために生贄を捧げなければならない。

そういうものだった。しかし、オルフェウス教は、神々と人の関係性を変え、人は死ぬと神の世界に入ることが可能である。秘技参入し、禁欲と戒律を守って生活すればそれが可能なのだと。

さもなくば、人の魂は永遠に人から人へと生まれ変わり、苦しみが続くことになる。

このオルフェウス教の考え方は仏教の基本的なコンセプトとほぼ同じである。

オルフェウス教では生贄を捧げる代わりに香を焚くのである。

ブッダ誕生以前にオルフェウス教があったとすれば、仏教はオルフェウス教の影響を受けたものかもしれない。ブッダの誕生には諸説あり、紀元前4~6世紀ということになっている。

オルフェウスはギリシャ神話に登場する神である。

オルフェウス教について調べていたら、非常に面白いことに出会った。以下の話は、日本神話とギリシャ神話の類似点に詳しい人には既知のことであるかもしれない。

オルフェウスは、ニンフのエウリュディケに恋をして結婚するが、やがて死んでしまう。

オルフェウスは、死んだ妻を取り戻すために、タイナロン岬の入口を通り、冥界の門をくぐって、冥界へと向かう。そして、冥界の神々に願い、太陽に満ちた世界に妻を再び連れ戻すことを許される。

しかし、それには条件があった。

「妻エウリュディケを連れて戻る時、アウェルブス湖の谷あいを出るまでは、けっして後ろを振り返ってはならない。」

しかし、帰りの道は霧が深く視界がほとんどない。不安になったオルフェウスは、後ろを歩く妻のことが心配になり、ついに後ろを振り返ってしまう。

オルフェウスは、愛するエウリュディケを冥界から連れ戻すことはできなかった。

この話は、イザナギが黄泉の国にイザナミを取り戻しに行く日本神話の話と全く同じプロットである。

黄泉の国へと降りて行ったイザナギがイザナミをこの世に連れ戻す条件は、イザナミが神々(黄泉の国の住人)と、この世に戻る話し合いをしている間、けっしてイザナミの姿をみてはならない、というものだ。

あまりに待たされるので我慢できなくなったイザナギはついにイザナミの姿を見てしまう。約束を破り、蘇る前の醜い姿を見てしまった夫に怒り狂ったイザナミは、驚いて逃げるイザナギを黄泉の比良坂まで追いかける。

多少の違いはあるもののこの話が同根であることは疑いがないだろう。

そんなことを調べているうち、もうひとつギリシャ神話と日本神話の類似点に出会った。

ギリシャ神話に豊穣の女神デメテルという神がいる。デメテルにまつわる神話はアマテラスの岩戸隠れに関わる神話。アマテラスとスサノオに関わる神話と極めて類似する点がある。

デメテルは愛娘を奪われると悲しみで食物を一切口にしなくなるが、バウボが性器を露出して奇妙な踊りを始めたのでついに食物を摂った。(岩戸隠れとアメノウズメの裸踊り)

デメテルの弟神ポセイドンは、嫌がるデメテルを騙して強姦してしまう。デメテルは怒り、洞窟に籠ってしまう。(スサノオの乱暴狼藉とアマテラスの岩戸隠れ)

スサノオの乱暴狼藉とは、実際はアマテラスへの乱暴という意味であると言われる。神話ではスサノオはアマテラスの機織りをする機屋に馬を投げ入れるなどの乱暴狼藉を行ったので怒り狂ったアマテラスは岩戸に隠れる。

一方、デメテルは、追ってくるポセイドンをかわすため馬に化けるが、ポセイドンも馬に化けて近づき、ついにデメテルと交わる。

ポセンドンとデメテルの交わりの結果生まれたのは、アレイオンという神馬であるが、アマテラスとスサノオの間に生まれたのは宗像三神である。

スサノオはアマテラスの弟神であり、海の支配者、根の国の支配者。ポセイドンは、海の支配者であり、地下世界の神。

日本神話とギリシャ神話は同根の要素を持ち、その淵源は恐らくシュメール神話にある。

シュメール神話には、イザナギイザナミ、アマテラス神話を合わせたような話がある。

これらを追っていけば両文明の深い繋がりはさらに明らかになるだろう。

東洋における日本文明の孤独と孤立と独自性の淵源は、東洋(極東)にあって日本文明だけが何故か地中海の古代文明と多くの類似点を持っているということと極めて密接な繋がりがある。

このことはさらに突き詰めれば、やがて日本文明とユダヤ・キリスト教文明との繋がりから、両文明間の「受け渡し」「引継ぎ」「新たなる提示」へと繋がってゆくのである。

それは、

『一周回って原点に戻る』

すなはち、

『原点回帰』

といった意味あいを含んでいる。

(写真:揖夜神社-いやじんじゃ、黄泉比良坂)

空についての詩編

インド思想の空理論についての文書を見ていたら、まことによくできた詩編があった。

『ひきよせて むすべば柴の 庵にて とくればもとの 野はらなりけり』(『愚管抄』慈円)

世の中は変転極まりなく、うつろい、ひとところに留まるものはなにひとつない。

西洋のギリシャ哲学による論理学は、『ある』か『なし』かである一方、インド哲学では、『ある』でもなく『ない』でもない。

これあるによってこれあり これなしによってこれなし

という。これが『空』のこと。『空』は『無』ではない。『無』ならば『なし』ということだ。

『空』とは常に移り変わり、同じものはなく、留まる形はなにもない。結んでは解け、解けては結ぶ世の仕組み。

日本の武将・武士には空観があった。

『人間五十年 下天のうちにくらぶれば 夢幻のごとくなり ひとたび 生をえて 滅せぬもののあるべきか』(『敦盛』信長が好んだという)

『露と落ち 露と消えぬる わが身かな 浪華のことは 夢のまた夢』(秀吉の辞世)

『嬉やと 再び醒めて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空』(家康の辞世)

それに比べると藤原道長は全く違う。

『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば』

こういうのを何的というのか。

道長はさておき、日本の支配階級のある種の潔さというのはこう言うところにあると思うが、西洋でも、中国や朝鮮半島にもこう言った感覚があまり感じられないように思う。

(写真 慈円 wiki)

この世に中心軸はない 真理は一つではない

ならば唯一という発想自体矛盾している。

銀河には中心があるかもしれないが中心に重要な何かが存在しているわけではない。玉ねぎの皮みたいなものだ。中心点だからなにがしかの圧が関わっているかもしれないが。

別に銀河が宇宙の中心でもない。

いくつかの中心点を持った寄り集まりが、有機的にあるいは無機的に繋がっている、連携している、あるいは自立している、独立している、その集合体が宇宙だ。

よって「神」という概念も同様である。

唯一最高神などというものは存在しない。個々人にとっての、あるいはなにがしかの集合体としての、ということはあり得るが。

従って唯一最高の存在があるとして、それのみを認め、それ以外のものを破却するということは宇宙のバランスを崩すことに他ならない。

全てにおいての真理は一つという概念も実は間違っている。