先日記した、新座の歴史に絡み、過去に聞いたことのある類似の歴史をまとめてみた。見て行くうちに、現代の半島事情に重なるものが透けて見えてきた、気がした。

高句麗の滅亡

写真にあるように、高句麗は朝鮮半島北部地域を主とした王国だが、唐と敵対し、新羅からの要請があり、唐により滅ぼされた。

写真に、日本のことが「倭」となっており、この写真をアップしたのは日本人ではないかもしれない。「倭」は、中国人による、日本の蔑称である。したがって、wiki上の歴史の詳細部分に関しては、脚色、改竄の可能性があるが、概略的に理解していただきたい。ちなみに高句麗全盛期の首都は平城、すなわちピョンヤンであることを記憶されたい。

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隋が滅びて唐が興ると、今度は唐が高句麗遠征を行った。これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍事政権によって唐の進出に対抗した。高句麗は緒戦で善戦し、唐の太宗が親征した第1次侵攻を撃退、百済と結んで新羅を攻めた。

新羅の宗主国である唐はこれを受けて新羅を全面支援した結果、660年には百済が滅亡、663年の白村江の戦いで百済の残存勢力も一掃されたため、高句麗は孤立した。

さらに高宗の時代になって唐が戦略を持久戦に転換した結果、高句麗の国力消耗は著しくなり、その上に淵蓋蘇文の死後子の間で内紛が生じると、これを機に唐・新羅連合軍は第3次侵攻を起こして王都平壌を攻め、668年に宝蔵王は投降。ここに高句麗は滅亡した。 以上wikiより

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高句麗からの流民が発生

滅亡した高句麗からは、王族などを含め多くの人間が日本へ逃亡するものがあった。この時の記録が関東の以下の地域などで集落史として残っている。

1. 神奈川県大磯町 高来神社(高麗神社)

高句麗が滅亡し時、日本に滞在していた高句麗王の一族、若光が日本に亡命、一族をひきつれてこのあたりに上陸した。以前この神社の宮司から聞いた話では、この神社の裏山は、高麗山と言い、山頂には墳墓のような磐座がある。ここに若光の墓があるのではと、語っていた。

http://blogs.yahoo.co.jp/bcnks330/12204477.html

2. 埼玉県 旧高麗郡

716年、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗から渡来系遺民1799人を武蔵国の一部に移したことにより高麗郡として設置されたのが最初である。

設置時の郡域は現在の日高市と飯能市の一部であり、律令制下では小郡に分類されていた。『倭名類聚抄』には高麗郷(現在の日高市高麗本郷付近)・上総郷(現在の飯能市北東部)の二郷の名が記されている。郷名から高麗郷には旧高句麗の遺民が、上総郷には上総国からの移民が配置されたものと考えられている。

中世以降郡域が東側の入間郡・比企郡方面に拡大し、江戸時代には鶴ヶ島市・日高市全域および川越市・飯能市・狭山市・入間市のそれぞれ一部を含む地域となり、入間川が入間郡との境界となっていた。(wikiより)

716年に設置された武蔵国高麗郡高麗郷の地で、当時高麗郡大領に任命された高句麗王族・高麗若光を祭る高麗神社が鎮座する。高麗郡は668年に唐に滅ぼされた高句麗の亡命者を収容した。(日高市 wiki)

3. 山梨県 旧巨摩郡

初見史料は『正倉院文書』天平宝字5年(761年)12月「甲斐国司解」に見られる「巨麻郡栗原郷」。郡名の由来は二つの説があり、江戸時代に編纂された『甲斐国志』など近世の地誌類によれば、古代に多くの御牧が多く存在したことから、良馬(駒)を産出した地である事にちなみ「駒」という言葉が由来となったという説と、668年の朝鮮半島での高句麗滅亡以後、『続日本紀』霊亀2年(716年)5月16日条に甲斐はじめ関東や中部の7カ国へ高句麗からの帰化人が渡っている記事が見られることから、高句麗からの帰化人にちなみ「高麗」という言葉が由来となったという説があった。近代までは前者の「駒説」が有力であったが、関晃による上代特殊仮名遣の研究により、「駒」のコは甲類、「高麗」のコは乙類で、乙類の「巨」に一致する「高麗説」が妥当であり、高句麗形渡来氏族大狛連(狛造)の本貫地である河内国大県郡巨麻郷や若江郡巨麻郷に「巨麻」が当てられている事から、巨麻は高句麗(高麗)を意味すると考えられている。

それまで原野であった地域への立郡事情にも渡来人の関わりが考察されており、磯貝正義は栗原郷・等々力郷が飛び地であることに着目し、山梨郡の有力豪族が牧場経営などを目的に渡来人を利用して立郡したとする説を提唱している。

一方、末木健は考古学的成果に依拠し、天狗沢瓦窯跡(甲斐市、旧中巨摩郡敷島町)から高句麗系軒丸瓦が発見されたことに着目し、寺院建立のために渡来系工人集団(壬生直氏か)が畿内政権の支援を得て立郡した可能性を指摘している 。

その後、渡来人の足跡は途絶えるが、『続日本紀』に拠れば霊亀2年(716年)に甲斐を含む東国の高麗人を武蔵国へ移し高麗郡が置かれたとあり、中核集団が移住したとも考えられている。
以上もwiki

4. 新座市

これは、前回の記事を参照。ここだけは、高句麗人ではなく、新羅人。歴史を見ると、高句麗滅亡後、新羅も唐との関係が悪化したとある。それにより、新羅人も日本に流れたものがあると。

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このようにみて来ると、西から東遷させられる形で、山梨県あたりにいた、高句麗の落人は、さらに埼玉県へ移され、定住したと思われる。大磯町の上陸説は上陸なのか、あるいは王族の末裔だけが、「避暑地」というわけではないが、風光明媚な大磯町あたりに居を構えたのか。定かではないが。

高句麗、新羅は落人があるが、百済はないようにも思われるが、どうなのか。関西地域には百済人の渡来集落史がある地方があるのかもしれない。埼玉県和光市には、はっきりしないが百済人の渡来伝説があるようである。
歴史は繰り返す。高句麗は今の北朝鮮にあたる国家である。これが滅びた時、再び落人がこの地にやってくるかもしれない。

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