(後日注:下記で使用の「共生」と言う言葉は「共栄」という概念に置き替えた方が適切。「共生」と言う言葉には、異文化を強制的に同化させる意味が含まれており、上記の概念には不適切と判断)
日本人にとって「平等」という概念は非常に肌に合わない異質なものだ。日本には古来「共生」の概念がある。本来「平等」などという概念は不要なのだ。「共生」で何か問題ありますか。これについて簡単に論証します。
日本の祭りとは、神さまをお迎えし、お供え物をした後、祝詞をあげ舞を舞うなどした後、直来(なおらい)でしめくくる。
「まあお互い仲良くやりましょう」
直来では酒を振る舞い食事を共にする。これが共生概念の原風景だと思う。神道の祭祀においては「食」が重要な要素を持っている。日本人の食がこれほど発達し、洗練されたのにも意味があるのだ。
さて、現代日本で主に考えられている、(絶対的)平等主義というのは、革命や共産主義などとセットになった非常に暴力的な「言霊」だと私は感じている。
労働者は、資本家、王政、宗教者から搾取されており、これらの不正や不当や不条理を「是正」するため、力づくで粉砕し、労働者による労働者の世界を構築すべきである。国家も不要だ。国境もいらない。地球全体が「労働」に基づくひとつの世界とすることを目標とする概念の延長線上にある平等思想だからである。
ソビエト連邦、中華人民共和国、カンボジアなどもそうだが、これらの国家が建設される過程及び建国後において、「平等主義」という名の下に、恐らく億単位に近い人間が殺戮されているであろう。このことをよく念頭に置いておく必要がある。「平等主義」とはとてつもなく「高くつく」思想なのである。
人間間における(絶対的)平等主義とは、対立の思想であり、必ず軋轢を生じ、争いと人間不信を引き起こす装置であると私は考えている。なぜなら平等という言葉の中に、「平等」を侵す、自分達の「権利」を侵害する「敵対勢力」の存在が必ず内包されてしまう言葉だからである。
人間において絶対平等というものは起こりえない。その言葉自体がそもそも初めから矛盾している。だから必ず問題が生じるし、しかもそれを決して解決できない。しかし、強引にそれをおしすすめれば確実に争いが生じる。闘争の無限ループなのだ。だから、その思想に強い影響を受けた社会はどんどん「複雑化」し混乱し、常に次の「争い」の種を心の中に、あるいはシステムの中に内包し続けるのだ。これは日本に限らない。
「平等」という概念は、このように強圧的、暴力的、闘争的な意味を秘めた言葉である。従って我々は、「平等」という言葉を面と向かって言われると、問答無用で従わなければならないような、非常な「圧力」を感じているはずである。従わない者は人間として生きることを許されないような「匂い」に圧倒される。
だから教育現場では、「モンスターペアレント」が跋扈する羽目になる。
現代の日本人はこの概念を米軍によって戦後半ば「強制的」に制度として取り込まれたものの、体質に合わないから、その扱いに窮しているように思われる。「平等」という概念の名の下に血みどろの闘争をしたわけでもなければ、命をはった経験も何もないからである。
何事も「平等」でなければならない。そう言われるとあたふたする。感覚的におかしいと感じているから、迷いがある。だから、上手く対応できず、仕方がないから適当に謝罪しておけ。「配慮」という概念を持ち込んで適当に受け流しておけ。そういうことになる。さもなければ「平等主義」という「監獄」の中で小さくうずくまり、ストレスを蓄積しながら日々の生活を送るかである。気楽なのはそれで食っている人間だけだ。
外交でも教育の現場でも、現代日本人はこの言葉に追いまくられ疲労困憊している。日本はストレス社会だ。しかし、古来日本の社会がこれほどストレス社会であったとは思えない。これは明らかに戦後の風潮であると私は思っている。
「平等」の概念には大きな矛盾、落とし穴がある。仮に平等が理想的な概念であり、これをどこまでも拡張していくことが世界平和に有効であるとしよう。人間は民族も人種も性もすべて物理的に絶対的に平等であるべきとされ、国境がなくなり、国家が消失して、結果世界政府のようなものが出来上がったとしよう。すべての人類に選挙権が与えられ、世界政府の議会に政治家を選出する必要が生じるとしたら。恐らく世界は中国人かインド人のものになるだろう。多数決では常に彼らが優位であり、彼らの政策が最優先され、それ以外の民族や人種の意見はほぼ無視される。彼らが権力を握った挙句、従わない民族や人種はあらゆる方法や手段で「合法的」に抹殺されるかもしれない。
これが「平等」の行きつく果ての世界のひとつであろうと、私はごく「単純」に考える。
別に中国やインドが悪いと言っているのではない。日本人として、あるいはそれ以外の民族人種として考えた時、それで良いんですか。という意味である。
平等思想、いわゆる絶対的、物理的平等思想というのは「誤り」であり、人間社会を混乱と闘争に導く思想だと私は思っている。
しかし、この考えの源泉であろう「神の下における平等」は少し意味あいが違う。
「平等」という概念が明確に表れたのは、「神の下における平等」という考え方の起こりに由来している。この思想は啓蒙思想(17世紀イギリス)から生まれ出た考え方とされているようであるが、このあたりをほじくりだすと大変なことになるので、簡単に記す。
「神の下における平等」とは、人間にはそもそも個々に違いはあるものの、神と信仰者との一対一の関係において人は平等にその関係を持つことができる(あるいは持つべき)というものだ。
イギリス起源であるから当然プロテスタンティズムと結びつき、カトリックが教会を中心とした共同体を重視するのに対し、プロテスタントは、聖書と個人との関係を重視する。そして、そこから起こる個人主義と結びついてゆく。個人的にはこの考え方には賛意を持っている。しかし、日本にはキリスト教が根付かないため、この思想が直接キリスト教とセットで日本国内に流入し根付く可能性はないし、これまでもそういう形での「平等主義」は入ってきていない、あるいは全く根付いてはいない。しかし、神道と絡めて、神様と個人との一対一の関係を構築する思想として受け入れることは有用だと私は思っている。
しかし、これまで記してきたように、現代の日本社会の中に広く受け入れられている「平等主義」の概念はこれら啓蒙主義的、西洋キリスト教的、神学的な意味での平等主義ではなく、その後、西洋においてこれらの概念をより過激化させ、かつキリスト教など宗教主義との対立概念として誕生したマルクス主義から来るものであろう。
我々日本人としてこのような概念を珍重する必要はない。「共生」のほうがはるかに高度で洗練された思想だと私は確信している。日本人は自信を持って彼らに言えばよい、
「平等?そんな低級なものは必要ありません。その考え方の名の下に一体何人の人が殺戮されてきましたか?我々には共生という概念があります。それでずっと平和に仲良く暮らしてきました。何か文句ありますか?」
と。
(後日注:「共生」と言う言葉は「共栄」という概念に置き替えた方が適切。「共生」と言う言葉には、異文化を強制的に同化させる意味が含まれており、上記の概念には不適切と判断)

