ここ最近自分が強く思っていることを文章化したい。
全てをうまく表現できないかもしれないが、いずれ改めて書きなおすことになるだろう。
この動画は作品同様に優れた記録である。この動画を最後まで見ると監督の優れた人格が良く理解できる。そして彼がこの作品に対して並々ならぬ思いを持っていることが理解できる。
それらを踏まえて以下、
PerfectDaysの監督ヴィムヴェンダースがこの作品の製作意図や経緯を語る極めて貴重な動画である。
それによると、彼自身の当初の製作意図は「こんな生き方ができたらどれだけ幸せだろうか」というようなものであったように思える。
社会的に成功して、誰もが憧れ羨むような人生を送っていたとしても、心に大きな隙間があって、それを埋めるためにはどんな生き方が良いだろうかと模索するというような話はよく聞く。
この作品が、社会的「成功者」の憧れから作られたものだとしたならば、正直凡庸なものでしかないだろう。しかし、この作品には、もっと奥深い意義のある作品だ。
私の父親は「寅さん」映画が好きで、いつも「あんな生き方ができたらいいなあ」と嬉しそうに語っていた。
ある日私は、
「だったらそういう生き方をしたらいいだろう。なんでそうしないの?」
と問い詰めた。すると父は急に機嫌を悪くした。
「バカなことを言うな」と。
私はそんな父親に心の中で失望したことを記憶している。憧れる生き方を自ら目指すことをせず、ただ心の中でいいないいなと思っているだけなど悲しい話だなと。若気の至りだったのだろう。
しかし、父親は晩年、自分は若い頃、救世軍や天理教信者のように全てを捨ててみんなで楽しく生きるような生活をしたいとよく思ったものだったとしみじみ語った。その晩年の言葉には何か重みを感じ心に沁みた。
この作品には、ヴィムヴェンダースと父親との思い出が重なる。かたや世界に揺るぎなく評価されたアーティストであり、かたや戦前戦後を通して社会では名士と言われる生き方をしたという程度でしかなく大きな隔たりはあるが、それなりにこの世の社会の道理を極めた人の行き着く世界は似たようなものではないかという。
一方、自分のつたない人生を振り返り、少なくとも父親よりは、相当自由な生き方をして、トイレの掃除夫ではないが、ある種相当ストイックな生き方をしてきた。
PerfectDaysの主人公のような生き方が憧れだとヴィムヴェンダースは言う。
しかし、そういう生き方をしたとして、人の人生における「哀しさ」のようなものの「結末」が払拭できるわけではないと私は感じている。
映画のラストシーンでの主人公の複雑な表情は、どんな生き方をしても人の人生は同じようなものであり、それは同じような哀しみ、一瞬の楽しみに溢れたものだ(ものに過ぎない)ということを見事に表現していると私には思える。
この作品の意図は最終的に人(万人)の人生の結末(有り様)を見事に描いている。
もし、それを監督自身が意図していなかったとしたら、この作品は監督の意思をはるかに越えた表現を実現した意義深い作品と言えるだろう。
しかし、あのラストシーンを加え(られ)たという事実から、ヴィムヴェンダース本人はやはりその意義を理解しただろう。
彼はこの動画で、
「この主人公の姿は全ての人間にもあることだ」(同様の表現ではないが同様の意味で)
どれほどの人生であってもそれは平山(主人公)と何も変わらない。どんな生き方をしても人の一生というのは同じような結末(魂の奥底で)を迎えるものだと。
それゆえにこの作品の意義は深い。
ヴィムヴェンダースが一つの作品でこれほど長軸で語ったことはかつてなかっただろう。彼の話によるとやはりこの作品は彼の「意図」を越えたところで製作された部分があったようだ。
話を最後まで聞くと、彼の「意図」を越えて、何か演者やスタッフを通し、日本人の文化文明からくる何か不可思議な意思のようなものがこの作品に魂を吹き込んでいるように見える。
「この作品はフィクションとドキュメンタリーの融合だ」
とも語っている。ドキュメンタリーは作者の意図を越える、あるいは無関係に進行するものだ。そこに「見えざる意思」が働いた。
彼自身にもこの映像表現に一時戸惑いがあったようにも見える。そして、彼自身この作品への評価も完成前と後で大きく変化しているようだ。
「この作品はとても日本的な存在感を持っています。東京でドイツ映画を撮ることはできません。同時に、私に日本映画を撮ることはどうしてもできません。私は日本人ではありませんから。でも、映画は非常に日本的なものになりました。」
「些細(ささい)なものに意識を注ぐこと。大きなビジョンに些細なものが深く関わっているという自覚を持つこと。些細なものに気がつかなければ大きな世界のビジョンを持つこともありません。些細なものを軽視すると、偉大なもののヴィジョンを持つことは決してできないんです。」
彼はこの動画の最後に語る。
「この映画の最後の最後のショットまで、あれは全てプロセスなんです。」
彼は小津安二郎から多大な影響を受けているようだが、彼の話を聞いていると、彼ほど小津の精神を深く凝視し続ける映画監督は日本にもいないだろう。
この動画を通して感じるのは彼自身に内在する本質的な「ストイシズム」的感性だ。
この作品は、米国のアカデミー賞を逃したようだが、欧米人の多くはこの作品の真の意味を理解できていないのではないか?
「古池や蛙飛び込む水の音」を英訳すると「The sound of old ponds and frogs jumping into water」となるがこれと同じ意味において彼らには何の味わいもないただの風景描写に過ぎないと見えるのかもしれない。
一方、私にはこの映画が描いた世界観の先に、まだ次のストーリーがあると自覚している。
人が自分の外側のことだけを意識して人生を送るなら、それはどれほど社会的に満たされたものだとしても「哀しみ」を伴うものになるだろう。その人が賢明であればあるほど。
他人の人生や、理想とされる生き方を自分の人生と比較する。人間社会の中での自分の位置づけを人生の最後に振り返りむなしい気持ちになる。それらの見方あり方をするならば、どのような立場であっても人生の結論はそれなりに同じだろう。
しかし自分の内側に意識を向けた時、内側を主とした生き方にシフトした時、それは変わる。外を見て自分を判断するか。内側のみに意識をシフトして社会を生き、世界に生きるか。
このプロセスは言葉で説明しても捉え方の違いや齟齬(そご)が出るだろう。しかし、それを実現した者、あるいはそれに気づいた時、その人の人生は大きく回天する。
貴重な「先人」や「先霊」の意見に耳を傾けなければそこに至ることは難しい場合もあるのかもしれない。
【「平山という男は、どこから来たのか」ヴィム・ヴェンダース監督ロングインタビュー_『PERFECT DAYS』】
https://youtu.be/3rtwl8xN_PE?si=oCOtDpTH7plxz4-H
https://youtu.be/0pQJ9-wrLVA?si=yDi97HOWMcCLlNdk
https://youtu.be/clyBjPpo9uo?si=lkz5PWTwihSQt5PH
https://youtu.be/y8oHxw31vWM?si=u3Fx9H_rea0I4C2x
https://youtu.be/IKH-ITpa8d8?si=ipSMnHCjQHqmtiIo
https://youtu.be/slcjhiuudSY?si=sAA1LAb3gb2FztvZ

