認知症になった人の魂の状況について興味がある。
グルジェフは、人格と本質は別だと言った。
この言葉を参考に考えた場合、認知症というのは
「人格が崩壊した状態」
にあると思われる。
チベットの「死者の書」などの記述によると、人は死後記憶が鮮明になるという。生前の記憶が詳細に蘇るとも。場合によっては、その前世の記憶も併せて蘇るのかもしれない。
私の父は死の少し前に認知症が進行した。
彼の様子を思い返してみると、元気だった頃の強い人格が消失していることがわかり、じっくり観察していると、彼の「本質」のようなものが垣間見える瞬間がしばしばあった。
それは私と父との関係性において非常に重要な経験をもたらした。
認知症患者(末期)の肉体に魂はあるのだろうか?
恐らく人によっては完全に抜けているかもしれない。
ある人によっては、入ったり抜けたりしている場合もあるように思える。
抜けていないとすると、ほぼ「寝ている」状態と同じだとも思われる。
認知症という状態が肉体としての壊れ。肉体によって形成された人格の崩壊状態にあることは確かだ。
一方、それゆえにその人の本質をストレートに垣間見ることのできる機会やチャンスもあるように感じられる。
「ロストケア」という映画を見た。
なかなかの問題作だ。この映画では上記に記載したようなテーマについて考えさせられる。
ある介護士が42人の老人を殺害した。
彼は、
「自分は彼らと彼らの家族を救ったのだ」
という。
この映画にはさまざまな社会問題を含んでいるが、この介護士の論理には基本的に賛同できない。
第三者が勝手にその人を「手助け」のためだと言って命を奪うという行為は、私自身の経験に照らせばあり得ない。
自分の父親を第三者の介護士が命を奪ったとなれば、
「ありがとうございました」
とは思わないだろう。
一方、このようなことも言える。
もし自分が認知症になって右も左も分からないようになったなら、
「殺ってほしい」
と思うだろう。結局、本人が望むか望まないかによるだろう。
さらに言うと、私と父との経験は、この映画で殺人犯と対峙する検事と同じように「安全地帯」の立場に過ぎないとも言える。この映画の中で主として描かれていた悲壮な介護の実態下にある人々にとってはどう感じるかは分からない。
この映画の主人公は自分の父親に頼まれる形で命を奪うが、それ以降、あたかも自分のした行為の正当化のように多くの認知症老人の命を奪っていく。
なぜ人は認知症になるのか。ということについては内面的なあるいは魂の領域から考察を深めていきたいと考えている。

