昨日の書き込みに引き続き、日本人の特殊な気質に関して話を「ざざっと」進めたい。

島国の閉鎖空間だから限られた人たちがお互い上手くやっていかないといけない。だから時として自分を殺してでも社会を優先する気質が自然と生まれた。それは生活の知恵のようなものだという意見もある。

しかし島国の閉ざされた空間は日本だけではない。英国は日本とかなり近い地理的条件にある。閉ざされたという意味ではフィリピンも台湾もインドネシアもニューギニア、オーストラリア、ニュージーランドもそうだ。

確かにこれらの国々の中にはユーラシア大陸に比べて人心が穏やかだと言える場所もある。

しかし、それだけで日本人の気質や気性、日本文明の性質を語ることはできない。

ネルケ無方というドイツ出身で日本の禅僧になった人がいるが。彼の著書に

「日本人に宗教はいらない」

という著作がある。日本人は宗教に拠らずともそれが目的とする人間が目指すところの社会性の実現を自ずから獲得している、というような話を主体とした書籍だ。

宗教の目的は人間個人の社会性の獲得だけではないが、それも初期の重要な意義付けになっていることは事実だろう。ネルケ氏は、日本人の不思議な特性を天皇の存在と結びつけているが鋭い洞察力だと言える。

社会を安定させるために西洋や中国では思想が発達した。

日本に偉大な思想家が出ないのは、思想を必要としていないからかもしれない。

思想とは社会の不安定や人心の乱れが甚だしさを極めた時にそれを必要として生まれ出るものだろうから。

日本人は社会に対して従順な民族性だと言われる。

現代社会ではあまりにも「民衆が文句を言わない」ことから、社会的閉塞性に繋がるものとして否定的に見られるてきた。また、それを日本人には自我の目覚めが低いのだと、欧米人に揶揄されるきっかけとして使われてもきた。

欧米や中国では何かあるとすぐにデモや暴動や時として革命が起こるが、それは民衆の社会に対する不満と怒りと不信感の現れでもある。

日本人にそのようなことが起こりにくいのは社会への不信感の低さを証左するもの以外の何物でもない。理屈よりも現実を見なければならない。

これは、歴史的に日本の支配層が大衆に対して世界的な基準からみて極端に寛容を通したことの証拠と言える。(もちろん全て正しかったとはあえて言わない。)

支配層がとんでもないことをしたら、必ず大衆は支配層へ不信感と怒りを募らせる。これは理屈でなく人心の必須である。それが起こらなかった。非常に起こりにくかった。にも拘わらず世界史の中において目覚ましい成果を得た、という事実は見ておく必要がある。

昭和時代に日本人のマルクス思想にかぶれた連中が日本の支配層が封建主義時代に民衆を搾取してきた。その代表たる天皇制を打倒せよ。と叫んだが、お門違いもはなはだしい。それは西洋や中国での話にすぎない。

実際には、侍も天皇も貧乏だったんだから驚きである。

本居宣長という人物は、江戸の鎖国社会の中に生きていたにも関わらず、まるで世界を見て回ってきたかのように日本人、あるいは日本の社会の際立った特性を看破している。驚くべき人物だ。

「まことは道あるが故に道てふ言なく、道てふ言なけれど、道ありしなりけり。」(直毘霊」本居宣長)

日本人にはおのずから道というものが備わっているから、言(理屈・思想)は必要ない。やたらと言挙げするのはその国に道がないからに他ならない。と言っている。

漢心(からごころ)と大和心は違うのだと。

こういう話をすると自閉的な日本人による自民族優越主義の表れだと揶揄する西洋かぶれの知識人がいそうだが、もちろんそんな話ではない。

戦後、このような日本人の特性は大きく失われたと思われるが、それでも世界基準でみるとまだまだ驚くほどにその特性は残っている。

武士階級は日本人の10%ほどに過ぎなかったが、明治以前に武士階級以外が戦闘に巻き込まれることはほとんどなかった。これも世界的にみて極めて稀な現象だが、日本では戦国時代ですら、武士の戦争を山の上から握り飯を食べて見物していたのが日本の大衆の姿だった。

韓国では日本占領下の「七奪」を叫ぶが、台湾で「七奪」を叫ぶ者がいないのは不思議な話である。同じ併合下にあったのにそんなに違ったはずはないだろう。

人間というのは、自分がしてきたことは、他人もしてきたと思いがちである。これは、李氏朝鮮以前の半島で何があったかを証左する話であろうか。

しかし、明治以降、特に第二次世界大戦の際に大半の日本人が極めて過酷な戦争の状況に巻き込まれたことで初めて戦争のすさまじさを肌身で感じた人々が出たことで、社会が混乱しているのも事実。

民主主義というのは「辛いもの」なのである。

武士階級は当然のことと腹をくくり、負け戦に黙して語らずという姿勢がさらに日本社会を「勝者の理屈」に染めたのも事実であろうか。

一方、今の若い世代の人々の中には、不思議なことに「生まれながらに」本来の日本人の資質を持っていると思われるような人々が一定の割合でいるような気がしている。

もしかすると、彼らの何%かは日本人の先祖還りのような人々なのかもしれない。

団塊の世代以降の昭和世代の人間(自分自身の世代を含め)が最もその資質を進んで否定してきた感は否めないが、これからの日本の大いなる変貌に期待したい。

団塊の世代というのは戦争には参加せず、ただただ焼け跡の食べ物のない時代に、進駐軍のいいなりで生きた人々だ。彼らの苦労は思うべきだが、私個人としては、彼らはあの時代の戦争の本質を語る資格はあまりないものと思っている。戦争がもたらす悲劇を語る資格はあったとしても。

正直、今の年寄はあまり使い者にならないが、いくばくかでも日本の本来の在り方を語る役目ができれば幸いである。

以下、上記ネルケ氏、本居宣長に関する過去の投稿のタイトルを記載しておく。検索すると出ます。

「キリスト教と天皇」(2018年3月15日)
「やまとごころ 大和魂 和魂漢才から和魂洋才へ」(2022年11月12日)

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