一体感で生きてきた民族にはほがらかに接してこそ国を動かす?

最近、所謂「岩盤保守層」あるいは「民族派保守層」(と言うべきか)の中に、日本の政治が外国勢力や多国籍企業群の言いなりになっている現実に鑑み怒りを日増しに増大させる姿を目にする。

そのような「厳格な保守層(民族派保守層)」は日本の人口の数%にも満たないかもしれないが、それ故に自らの主張が世論に届かない苛立ちは日々激しいものになり口調も攻撃的なものになっている。

日本は古来、国民全体が家族のような一体感で生活してきた。それが例え敵であっても敬意を持って、あるいは遠い親戚のような気持ちを失わずに接することは日本人の心を打つのではないか?

戦後は西洋や大陸的な価値観や社会情勢の影響を受けて、しだいに「攻撃的」な物腰に変化しつつある部分があるようにも見えるが現実にそのような「過激」で「攻撃的」な物腰は日本人全般には遠く響かないように思える。

他人に対する過激性・攻撃性を伴った主張というのは日本社会では人心に響かない。

そもそも一体感で生きている民族なんだから。本気の怒りや叫びで相手を罵倒すると、他人を見るような目でその人を見ることになるのではないか?

例え相手がどれほど無能で苛立つ人間だったとしても、家族に対するような愛情を持って接する部分を失わないようにすべきではないかという気がしている。

「お願いしますよ石破さんよ~!」

褒め殺しではないが。そんな調子でやっているとみんな面白がって、こっちを向いてくれるのではないか。そしてみんな真似するようになるだろう。

わざとらしく「庶民派」ぶるのはダサいし気持ち悪いが、ほがらかさをもって主張する。

「民族派保守層」は今深刻さを増しているが、そういう時こそ本来の「日本的」な姿勢に立ち還ることが求められているのかもしれない。

Exit mobile version