諸外国の人と話をしたり聞いたりして思うことは、彼らは言葉が明確で時として確信に満ちた物の言い方をするから説得力がある。

一方日本人は言葉の使い方が曖昧で説明することが下手な場合が多い。しかし、日本人の行動様式をよく見ていくと、意識の状態は時として非常に深いところに達していると感じることがある。ところが、その状態を意識化し言語化することができない。

これに対して、例えば西洋人は説明魔で、表現が巧みで話し方を心得て確信的であり、あたかも伝える内容に深みがあると思われるが実際にはそれほど深い意識に達しているわけでもないと感じることが多い。

このようなことは自分がかなり歳をとってから気づいたことだ。

夏目漱石はI love you. を月が綺麗ですね、と翻訳したというが、このような非常な繊細さはある程度歳を経ないと深く味わうことはできない。西洋人は四六時中 I love you. と言うが、日本人は死ぬ間際に ありがとう と一言だけ言う。そういう繊細さを理解できるかどうかという話にそれは現れている。

意識の深みというのは最終的に言語を超えたところにある。一般的に意識の深みというのはそれを言語化しようとすると陳腐化するからでもある。

意識の深淵に留まりたければたった一言。場合によってはひと言も発しないところから生まれる繊細で精妙さから生まれる共有意識を保ちうる世界をよく観察すること。そのような深淵は、言葉で共有することは不可能だろう。
その一方、

I love you を四六時中囁かれて満足する人は、いずれその言葉の回数を数え始める。もっと言って欲しい。多ければ多いほどそれが相手からの愛の証であるに違いないと。

今日は5回。次の日は7回。

回数が愛情の深さだと信じる人はいずれ、少なくとも1日に何回は言って欲しいと求めるようになるだろう。

そして遂にいつの日か「法制化」される。

あなたが私を愛していることを証明するために少なくとも1日に10回はI love youと私にささやかなければならない。もし10回に満たない日があったなら、その代償としてあなたは私にケーキを御馳走する必要がある。

ある日、ささやきは10回に満たなかった。

しかし男はケーキをプレゼントすることを拒否した。彼女はそれに腹を立て彼を訴えた。

「あなたは私への愛情表現を怠った。しかもそれに伴う代償を払うことすら拒否した。あなたは私達が交わした契約に背いた。それは罪であり、あなたはそれに相応しい罰を受ける必要がある。」

しかし、男は有能な弁護士を雇い、巧みな弁護でその裁判に勝利した。

「I love youの回数が愛の深さを測る物差しにはなり得ない。したがって契約の有無に関わらず、その回数によって私はあなたを愛していないと証明することはできない。これこそ私の勝利だ。裁判の勝利こそが、私の正しさの証明となる。」

この意識プロセスは現代の米国社会を象徴する。

実のところ、女性がI love youの回数を数え始めた時点でもう二人の愛は破れている。しかしその渦中にあって、人間がこの意識の遷移に気づくことは稀である。

むしろこのような「合理的な」考え方は進んだ人間が共有する価値観でもあり、優れた人間の証であると確信して疑わない人もいる。

その意識それ自体が本来の意義を損ねているにも関わらず。

そして、二人が真実を認識できるのは、二人の意識がすっかり焼け野原になってからである。

今、日本社会のある種の立ち位置にある人々の中には、未だこれと同じプロセスを歩もうと望んでいるものがいるように見える。あるいはそれ以外の正しい道筋を見つけることができないでいるようにも見える。

日本文明に生きる人々はこのような意識の破綻プロセスを真似するべきでない。

そういう価値観を我々に進めようとする人々の話を聞く必要もない。

我々は我々の本来の視点に立ち還り、これをさらに深めていくことが求められている。

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