人間50を過ぎたら一つ一つ捨てていく。捨てた先のことはどうでもいい、という感覚。

本当に自分が求めているものだけをみるために、それ以外のことを削ぎ落としていく。

何も恐れることはない。

何故か?

どうせ誰しもこの世から消えてなくなる。

自分が魂の底から求めるものが見つかればただその中に入っていけばいい。

決して後悔することはないだろう。

それが

人の道

と言われれているものだろう。

自家の家紋と戦国期にある六芒星(ダビデの星)の謎

父方の直系で一番古い先祖の墓は女性で元禄頃。その墓に不思議な家紋を発見した。

それが2枚目の写真。いわゆるダビデの星というものである。日本では籠目紋と言われている。

当時は墓には生家の家紋を入れるのが一般的。恐らく女性の生家の家紋であろう。

もう10年以上前になるが先祖の墓を訪れた時、通常墓の前面にある水鉢香炉台がなぜか一番古い墓と二番目に古い墓の間に押し込められるように隠されてあった。

引き出してみると見たこともない家紋が描かれている。専門家に聞く機会があったが隠れキリシタンではないかと。

しかし、キリシタンがダビデの星を使うというのは不自然で私は信じられなかった。

ところが、先日知人と話をしていたら面白いことを聞いた。

長篠合戦図屏風というものがあるがここに六芒星が背中に描かれた人々が信長の周囲を囲んでいる。

ネット上ではこれをもって忌部氏に関わるものだろうと。

さっそく、長篠合戦図屏風のグラフのようなものを購入した。

ところが不思議なことにその雑誌で扱われていた合戦図屏風には背中に六芒星が描かれている人々は家康の周りにいる。

この長篠合戦図屏風というのはいくつもバージョンがあるようで、自分が手に入れたものは、家康以来代々直参の家系の人が所蔵しているもの。

二つの屏風の構図は全く同じだが、描き手が違うことが明らかで色味や線、形状が微妙に違っている。

この紋章が入った半纏を着た人物たちが周囲を囲んでいる、ということが権力者として、何か特別な意味があるのであろうか?

だから信長の周囲にいたり、家康の周囲にいるバージョンがあるのであろうか?

当時はよく知られた意味を持っていただろうが今はその知識自体が伝わっていないのかもしれない。

いずれにしてもキリスト教徒でないことは明らかであるし、西洋人の風貌でもない。

信長の周囲にいるバージョンの屏風は大阪城天守閣博物館所蔵のもの。

また六芒星と忌部氏とのつながりを示す資料も今のところ見つからない。

今後も調査を続ける。

(写真 1枚目 長篠合戦図屏風 家康陣拡大 成瀬家所蔵 2枚目 自家先祖墓(江戸時代 元禄頃)にあった六芒星の家紋 3枚目 長篠合戦図屏風 信長陣拡大 大阪城天守閣博物館所蔵版)

減災は意識化から

東日本大震災以降で考えると、東北、長野、熊本、大阪、北海道で大きな地震が起こった。災害という意味では中国地方や福岡等での水害もあった。

今までの感覚からすると思いもよらない場所や、意識化できていないところで災害が起こるような気がする。災害は抜き打ち的に起こる。

「まさか自分は被災しないだろう」

という考えは危ないのかもしれない。意識が飛んでいる時が危ない。

高知・和歌山から千葉までの「最も起こる」と言われているエリアで大きな災害がまだないのは不気味なくらいだ。

「災害は起こるし、被災もする。」

そういう気持ちを持つこと。意識化することでむしろ減災するような気がする。

関東東海における天変地異というのも今一度意識化の必要があるだろう。

備えあれば憂いなし という言葉もある。

血と魂 引き継ぐということ

引き継ぐということにはまず二種類ある。

血によって引き継ぐということと、魂によって引き継ぐということだ。

血というのは言うまでもなく血族として繋がっておりその意志・意思を連綿と引き継ぐと言うこと。

魂として引き継ぐというのは、その引き継ぐべき本質を、血の繋がりとは関係なく引き継ぐ意志・意思を表すということである。

血と魂が両方において引き継ぐというのは最も強固な形には違いない。

一方で養子などによって家を引き継ぐように、そこに伝わっているものを血の繋がりとは関係なく引き継ぐこともある。

血の繋がりは全くなくても、血の繋がった者以上に強く引き継ぐ意志・意思を表すものもいればその逆もある。

例えば、日本人であるのに、日本を、あるいは日本文明を貶める(おとしめる)ことに血眼になるものもある。

逆に日本人の血は入っていなくとも日本を愛し日本文明というものの魅力を全力で伝え守りその意志・意思を発展させていこうと懸命になるものもある。

血が繋がっていれば良いというものではなく、その魂がそれを引き継ぐ意志・意思を持つということが最も重要なことであるということになる。

もちろん天皇家のように、血も魂も兼ね備えて引き継ぐ場合には背負い込む密度は最大となる。

神の大小と人の大小

神様には大きい神様もあれば小さい神様もいるというのは事実だ。伊勢神宮や出雲大社や三輪山の神様のような大きな神様もいれば、田舎の実家の裏山にいる小さな神様もある。

しかし小さな神様を大切しているからと言って、大きな神様を大切にしていることよりもそれは小さいということにはならない。

小さな神様を大切にしている人が世の中に大きな影響を与えたり、世のため人のためになる仕事をすることはいくらでもある。

大きな神様を大切にしているからと言ってそうなるわけでもない。

神々の大小とそれに関わる人々の大小は、正比例もしなければ反比例もしない。

だから小さな神様だからと言って雑に扱っていいという話ではないし、大きな神様、最高神が一つあれば他の神様は不要であるというのは大きな間違いである。

巨人が一番強いから巨人以外のチームは不要である。もはや野球をする必要はない。してもいけないんだと。そういうことと同じである。

巨人ファンが最高のファンであって、それ以外のファンは大したもんじゃない。と言うのとも同じである。平家にあらずんば人にあらずとは?

いやあ、神様の話と野球のチームの話では、話が違うだろう。次元が違う。

そう言うかもしれない。しかし、私は全く同じだと感じる。

恐らくこの話は、たとえ、次元が違っても、宇宙の果てまで変わらないのではないか。

日本人ほど宗教音痴は民族はいないと言われるが日本人ほど宗教的な民族はいない。

日本人は世界の宗教情勢や世界がいかに動いているかを宗教すなはち文明という観点から見る知見がもっと必要である。

日本人はもっと「宗教的」になる、あるいは「宗教性の知見を身につけ」ねばならない、とは「全く」思わない。

日本人の本質は古来からのままでいい。しかし日本人は日本文明を担う者としての自覚が格段に必要とされるようになってきている。

神道は文明のファームウエアである

神道は世界の諸文明のファームウエアとなる。

これまでの全ての文明は、自分の価値観、すなはちソフトウエアを他文明に押し付けたり強制したりした。

それによる確執、諍い、怨念というものがやがてその文明を衰退させ、破壊してゆく。ルサンチマンは根が深い。

どれほど強大なものでも壊れる時は瞬時に起こる。

神道=日本文明はそうならない。

神道はソフトウエアを強制することはない。またそうなってもいけない。

ファームウエアというのは仕組みであり、基礎だ。思想ではなく思考でも理念でもない。

ソフト(思想・理念・価値観)はそれぞれの世界観に委ねられる。

ファームウエアとは、天地人の祭りごとという意味だ。

この二千年間の世界の諸宗教は天しか知らない。

シュメール(バビロニア)〜エジプト〜マケドニア〜日本を繋ぐ太陽神のシンボリズム

ごく簡単な朝のブレインストーミング。

シュメール/バビロニアの旭光を意味する神字(写真一枚目)は日本の旭日旗(2枚目。3枚目は神武東征図)と同じだが、旭光といえば、アレキサンダーのマケドニアを象徴するシンボル(4枚目ーマケドニア国旗)も同様である。

エジプトの太陽神ラーのシンボリックな絵図には太陽を象徴する赤い円(5枚目)が描かれているが、これを見るとゼロ戦の翼に描かれた国章(6枚目)を思い出す。

(ゼロ戦の模型の写真は引用:http://kurage55.blog60.fc2.com/blog-entry-527.html)