若い頃に小津安二郎の作品を観た時、正直面白いとも何とも思わなかった。これらの作品が何故そんなに名作たり得るのかと。

また、こういうテイストの映画がヨーロッパで賞賛されていることに対して、何か西洋人の軽薄さや浅薄さを感じたりして、大した感慨もなく受け止め、そのまま過ぎていた。

しかしここ最近、川端康成の「山の音」を読んでいて、その作品の醸す匂いから、常に小津作品が念頭から離れず、「晩春」「麦秋」を続けて鑑賞することになった。

やはりこれは名作だと。

しかし、こういう映画の魅力は、ある程度歳を重ねて、ちょっと心身が枯れてこないと理解が難しい。

溝口健二や内田吐夢のように、ダイナミックな生々流転の死生観を表現するでもなく、黒澤明のようなスケール観のある戯曲風に仕上げるでもない。

彼等が「平家物語」だとすると、小津安二郎は「徒然草」である。

ただどこにでもありそうな、しかしもう失われてしまった日本の家族の日常。微妙で細やかな心象風景を掴み取る繊細さがないと、こういう映画は観れない。

しかし彼の作品には妙な隠し味がある。

1. ありふれた日常風景の中に紛れ込む非日常と非現実
描く風景は極めて日常なのだが、台詞回しと、特有のカメラワークによる、「しつこさ」が日常の中に奇妙な空間をつくるのである。

2. 何も面白いことしていないのに感じる滑稽さ
喜劇でもなんでもなく、糞真面目なストーリーと進行であるにも関わらず 1. にある、奇妙な空間の連続表現により、それがだんだん可笑しく感じられてきて、しばしば笑ってしまうのである。

3. 原節子始め出演女優達の震えるほどのエロス
定点カメラで捉える原節子始め出演女優達の眼つきや、喋り口調から、別に脱いだり抱かれたりするはずもないのに、それをはるかに超えるエロスが画面中に漂う。

小津安二郎は本当に女好きなんだなと感じる。原節子をじっと見ていると、しだいに、こう言っているように感じるのである。

「小津監督さんったら。どうしてそんなに私のことお見つめになるの。そんなに見ないで頂戴。」

こういうエロスを感じるようになるとは、私も随分枯れたようである。

このように極めて「微妙な」感覚表現を有することは、日本人が本来特質される能力の一つであろうと思う。
小津安二郎の作品を観た後、最近のドラマとか見ると、物足りなくて見る気がしなくなってしまう。そう感じること自体が不思議な作品群である。

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