若い頃は日本という土地が窮屈に感じるものだ。

だから、ある人は海外に憧れ、日本を忌避したかもしれない。

そしてまたある人は、前世の自分を想う。

海外のとある地域に自分の心が執着して、その地域への思いを断ちがたい幻想に襲われることもあるだろう。

しかし、そこへ行ってみると、

その場所は、もう自分にとって「その場所」ではくなっていることに気づくこともある。

「時の経過」が自らの魂を変容させ、その場所をも変容させるからだ。

その後、人はふと神社を訪れる。

その魂は我に還り、神道が生み出す自然の「完璧」さの中に、「ぴりついた空気感」の中に包まれるだろう。

「畏るべき世界」の中に。

ただ単に、純粋の自然によってのみ生み出される、「自然の美しさ」と、

神道的世界観の中で、人との関りの中で産み出され、育まれる「自然の美しさ」とは、完全に別のものである。

この違いが理解できた時、その人の魂は神道から離れがたくなるだろう。

そして、その瞬間、人の魂は「日本人」となる。

それ以前の人は、厳密には、何人も「日本人」とは言えない。

逆に言えば、それ以降は何人も「日本人」となる。

そして、「日本人」として生まれたことに感謝し、あるいはこの土地に縁あることに感謝し、その「神髄」を守りゆかねばならないと決意するに至るはずである。

ついに「その人」は、ようやく「この場所」に至ることができた。

そして、ついにこう想うはずである。

神々がそこにいることに感謝し、その文明を守り、体現し続けてきた「天皇」の存在に畏怖するという、、、。

(写真:玉若酢命神社の八重杉、玉若酢命神社本殿、後醍醐天皇行在所址碑)

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