キリストの愛の正体を検証する

人はなにがしか背負って生きているものだ。多くは家族を背負っている。

世に言う成功者というのは、それ以上の多くを背負って生きている人のことだ。

何を背負っているのか?

それは大きくは人の思いの蓄積のようなものだ。

そういうものが特定の人間に集中することがある。

そのわかりやすいものの究極の一人がキリストであろう。

今では全ての人類の思いを背負い彼自らが一人犠牲となり神に召されたんだということになっている。

しかし本来はユダヤ人の思いを彼は背負ったということだろう。

ユダヤ人たちは彼を救世主だと信じたが、キリストの存在は彼らが期待したものとは違った。

ユダヤ人たちは、ローマ人のくびきからユダヤの民を解放してくれる「物理的救世主」であることを期待したが、彼はそういう人物ではなかった。

それを知った時、ユダヤの民は彼を「売った」のであった。

「我が神よ なぜあなたは私を見捨てたのか」

彼は死の直前にそう呟いた。

彼は神には見捨てられてはいなかっただろうが、結局彼自身が全てを背負ったはずのユダヤ人たちからは見捨てられたのは皮肉な話である。

彼を見捨てなかったのは、彼を葬ったはずのローマ人たちであった。

ローマ人の手によって彼は「人類の思いを全て背負い神に召されし犠牲者」ということにされた。

人類の皮肉か。

「我が神よ なぜあなたは私を見捨てたのか」

確かに彼はある意味見捨てられたのである。

彼が思う神とは、ユダヤの神であったはずだからだ。

それはしかし、

結局ユダヤの神ではなかったのかもしもしれない。

捨てる神あれば拾う神あり

神に請われて多くを背負いし者

人の思いは生死に関わらない。思いに生き死には関係ないのである。

そんな厄介なものは背負わないが楽に決まっている。

その通りだ。多くを背負わされたものほどそう思うに違いない。

人の欲望を背負うことほど面倒で無意味なものはないだろう。

他人の欲望というものは誰のためにもならない下らないものだ。

しかし多くを背負う者は生まれながらに背負いし者だろう。宿命的に背負っている。

だから受け止めていくしかない。

逃げるとひどいことになる。

そういう思いを受け止めて生きて行くことを、キリストは「愛」と呼んだのである。

キリストの愛とはそういうことだ。

私はキリスト教信者ではないがイエスキリストの歴史というものを見て行くとこういうことになる。

そういうところはみていかないといけないと思っている。

弥生人大量渡来説の嘘くささ

日本の古代史関連の書籍を読んでいるとイライラすることが多い。

判で押したように必ず出てくるのは、弥生人の大量渡来説である。

水耕稲作をもたらした弥生人が大陸から大量流入したというおきまりの話なんだが。

そもそも古代において海を渡って大量の移民が流入することなど不可能では?なんだか当たり前のように言っているが。

北方騎馬民族大量渡来説もそう。そもそも騎馬民族がどうやって「大量に」海を渡ってくるのか。騎馬民族と渡航渡海がどうしても繋がらない。騎馬民族がそういう発想をするようには私には思えない。

馬に乗ってるんだから。海を渡るくらいなら、西へ行くだろう。陸の人なんだから。

縄文人が弥生人に駆逐されたとか。

時代が変わって新しい技術が日本にもたらされたのは古代だけではない。

幕末維新においては、西洋の技術が大量に流入した。だからと言って日本列島に西洋人が大量に流入したわけではあるまい。

一万年後に、江戸から明治時代の変化を考古学的に調べると、ある時点を境に全く服装や出土品に変化があるから、恐らく異民族が大量に流入して既存の民族を駆逐したに違いない、という学説を唱える者がでるだろう。

武士が刀を捨てて、商人になったのは時代の変化ゆえだが。それを持って、武士民族が商人民族に駆逐されたとは言えまい。人間など時代が変わればやることも変わる。

一部の人は昔の生活をそのまま保つこともあるだろう。

漁師、猟師と農民では風貌は違うだろう。

よくいわれるのは、骨格の違いで縄文人と弥生人を分ける話。

現代人と戦前までの日本人。江戸以前の日本人ですら骨格はかなり変わってきている。

戦後日本人と戦前の日本人というのは、私の中ではもうほとんど「別人種」である。同じ日本人とは言えないほど違っている。

食習慣が変われば体形や骨格が変化するのは当たり前。ましてや弥生縄文というのは数千年とか数万年という時間経過がある。

確かに日本には、多くの「種族」「民族」混交のプロセスがあると思う。

今でいう東北地方と関西地方ではかなり違う要素が感じられる。北から、南から半島大陸から多くの渡航者があり、さまざまな文化を伝えてはきただろう。

飛鳥時代から奈良平安にかけて多くの帰化人が流入したことは事実である。

とは言え、弥生人の大陸からの大量流入という話はどうしても嘘くさい。本を読んでいると、多くの学者はこの問題にほとんど疑問がないかのごとくに論じているが、よくよく見ていくとそれほど根拠があるようにも思えないのである。

雰囲気で言っているだけなのでは?

多分誰か言い出しっぺがいて、それをそのまま受け売りで信じているに過ぎないのではないか。学者の言い分など100人いれば100人言うことが違う。

漁師が、「明日は雨だ」と予測するよりも学者の理論の的中率は低いのではないか、というのと同じ感覚で、読書する。学べるところだけを学ぶ。全て信じない。自分の感覚を信じる。これは重要なスタンスである。

エリ エリ レマ サバクタニ

神も仏もあるものか!

とは日本人の捨て台詞かもしれねが、イエスキリストも同じような台詞を吐いている。

「エリ エリ レマ サバクタニ」

十字架に磔にされたイエスが天に向かって投げかけた言葉である。イエスの遺言かもしれぬ。

我が神よ 我が神よ 汝はなぜ我を見捨て給う

神の子イエスも父なる神の真意を理解できなかった。理解できていればこんな台詞は吐かない。

これはイエスの「人間臭さ」を知る重要な手がかりであろう。

イエスは神に見捨てられたのか?

ならばキリスト教の信者とは神に見捨てられた人間の言葉を信仰しているというのか?

キリスト教学上は、イエスの復活を持ってこの疑問に終止符を打つのだろう。神に見捨てられていなかったことの証明ということか?

弟子達はイエスの復活を見てイエスの存在を再認識することになる。これをもって彼らは真の信仰に目覚めたとされる。

これは「顕現」ということだ。

後世の人間はこれを肉体を伴った復活だとか、実は生きていたんだとか様々「物質的な」解釈をする。

これは霊体が人の形を持って顕れたということだ。弟子達の前に「生前の」姿を伴って顕れた。

「私の言葉を信ぜよ!」

そういうことだろう。悲劇の死は悲劇ではないのだと。私は神と共にあるのだと。

人の心も碌に読めぬ我々凡人が、まして神の真意をや。

我々日本人も日々様々な神々と関わっている。

まるで真意の見えぬ「神々」などという存在と関わることに意味があるのか。人は思う。

意味があるのである。

それが魂魄の人の性であり、それなくば生きとし生けるものに列することができないということである。

しかし、このことは我々凡夫には難しい話ではある。難しいからただ手を合わせ祝詞を唱えておればよい。

神恩感謝 国土安穏 と